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巻第6(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第6-1041~1043

訓読

1041
我がやどの君(きみ)松の木に降る雪の行きには行かじ待ちにし待たむ
1042
一つ松(まつ)幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の音(おと)の清きは年深みかも
1043
たまきはる命(いのち)は知らず松が枝(え)を結ぶ心は長くとぞ思ふ

意味

〈1041〉
 我が家の庭の、貴方を待つという松の木に降る雪のように、むやみにお迎えには行きません、じっとお待ちすることにいたしましょう。
〈1042〉
 この一本松はどれほどの代を経たのだろうか。松風の音が澄んでいるのは、年の積もったゆえなのであろうか。
〈1043〉
 命の長さは知らないが、ただこうして松の枝を結ぶ私の心は、長く遠く続いて欲しいと願っている。

鑑賞

 1041は、天平16年(744年)の春正月5日に、諸々の卿大夫(きょうだいぶ)が安倍虫麻呂朝臣(あべのむしまろあそみ)の家に集まって宴会をした歌。「卿」は三位以上、「大夫」は四位五位に用いる敬称。安倍虫麻呂は、大伴坂上郎女の従姉弟にあたり、この歌は、播磨国守として赴任していた虫麻呂が、何らかの用事で都の邸に戻った時の宴で詠われたものです。作者名は記されていませんが、「我がやどの」とあるので、主人役の虫麻呂が、あいにくの雪に「君」と呼ぶ客人が来られるかどうかを危ぶんでいる歌とみられます。「君」が誰を指すのかは不明。「やど」は、家の敷地、庭先。上3句は「行き」を導く同音反復式序詞。女の立場で詠んでおり、「松」と「待つ」、「雪」と「行き」を掛けた言葉遊びになっています。「待ちにし待たむ」は、待ちに待とう。

 1042~1043は、天平16年(744年)正月の作で、
市原王(いちはらのおおきみ)、大伴家持らが、恭仁京付近とされる活道(いくぢ)の岡に登り、一株の松の下に宴を催した時に詠んだ歌。大樹の下で酒宴をするのは古くから行われたようです。1042が市原王の歌、1043が大伴家持の歌。市原王は、天智天皇の曾孫安貴王(あきのおほきみ)の子で、王族詩人の家系に生まれた人です。

 
1042の「一つ松」は、一本の松の意。「幾代か経ぬる」の「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形で、上の「か」の係り結び。「吹く風の音の清きは」は、松を吹く風の音が澄んでいるのは。「年深み」の「深み」は「深し」のミ語法で、年が経ったゆえ。「かも」の「か」は、疑問。1043の「たまきはる」は、霊(霊力・生命力)が極まる意で「命」にかかる枕詞。「命はしらず」は、寿命は分からない。「松が枝」の「が」は格助詞で「松の枝」の意。他に見られる「母が手」「梅が香」「誰が袖」「汝が名」などと同じ。「松が枝を結ぶ」のは身の安全や長命を祈るまじないで、安積皇子(あさかのみこ)の長命を祈った歌だともいいます。

 活道の岡の所在地については諸説あり定まっていませんが、その年の3月に急逝した安積皇子の挽歌(巻第3-478~480)を詠んだ所であり、挽歌に死者生前のゆかりの地を詠むのは一つの型になっていましたから、活道という地名と皇子との関係の深さが窺えるところです。あるいは、皇子の邸宅があった場所かもしれません。また、ここに安積皇子の名は見えないものの、途中まで皇子は同席しており、健康上の理由から席を外した、そして、ここの歌はその後に詠まれたのではないかとの想像もなされています。皇子の長命への祈りが、ある種の危機感を伴って背後に流れているような雰囲気が感じられるからです。
 


市原王

 天智天皇5世の孫で、志貴皇子または川島皇子の孫(生没年未詳)。天平15年(743年)に従五位下、写経司長官、玄蕃頭、備中守、金光明寺造仏長官、大安寺造仏所長官、造東大寺司知事、治部大輔,摂津大夫、造東大寺司長官など、主に仏教関係事業の官職を歴任し正五位下に至りました。『万葉集』に8首の短歌を残し、大伴家持との関係をうかがわせる歌も多くあります。 

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安積皇子

 聖武天皇の第2皇子。神亀5年(728年)9月に皇太子の基皇子が死去したため、皇太子の最も有力な候補となりましたが、天平10年(738年)、光明皇后の子・阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されました。天平15年(743年)、恭仁京の藤原八束の邸で宴が開かれ、この宴に大伴家持も出席し歌を詠んでいます。天平16年(744年)、聖武天皇の難波宮への行幸に従駕しますが、その途上、桜井頓宮で脚気になり、恭仁京に引き返し、2日後にわずか17歳で死去しました。藤原仲麻呂に暗殺されたという説もあります。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。