| 訓読 |
1547
さを鹿の萩に貫(ぬ)き置ける露の白玉 あふさわに誰(た)れの人かも手に巻かむちふ
1548
咲く花もをそろはうとしおくてなる長き心になほ及(し)かずけり
1549
射目(いめ)立てて跡見(とみ)の岡辺(をかへ)のなでしこの花 ふさ手折(たを)り我れは持ち行く奈良人(ならひと)のため
1550
秋萩(あきはぎ)の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿(しか)の声の遥(はる)けさ
| 意味 |
〈1547〉
牡鹿が、萩の枝に通しておいた露の白玉、その白玉をいったい誰が気軽に我が手に巻こうなどと言うのか。
〈1548〉
咲く花は色々ですが、せっかちに咲く花はあまり好きになれません。ゆっくり咲く花の、息の長い変わらぬ心には及びません。
〈1549〉
跡見の岡に咲いているなでしこの花を、たくさん折り取って私は持って行く。奈良京にいる人のために。
〈1550〉
萩の花が散り乱れている。折しも、妻を呼び立てて鳴く牡鹿の声が、遥かに聞こえてくる。
| 鑑賞 |
1547は、藤原朝臣八束(ふじはらのあそみやつか)の、旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)の歌。 藤原八束は、藤原四兄弟の一人、藤原房前(ふじわらのふささき)の第3子で、後に真楯(またて)と改名。天平12年(740年)に従五位下から従五位上となり、右衛士督、式部大輔、左少弁、治部卿などを歴任し、天平勝宝2年(750年)ごろには従四位上、ついで参議、大宰帥に任じられました。『続日本紀』薨伝に、「度量弘深、公輔の才あり。官にあっては公廉にして慮私に及ばず、聖武天皇の寵愛厚く、詔して奏宣叶納(天皇への奏上と勅旨の伝達)に参ぜしめられ、明敏にして時に誉れあり、その才を従兄仲麻呂に妬まれて病と称し家に籠もって書籍を弄んだ」旨の記載があります。藤原一族でありながら、大伴家持と親交があったようで、『万葉集』にもそのことが窺える記述があります。また、天平5年ころ、山上憶良の病床にも見舞いの使者を立てています(巻第6-978)。『万葉集』には短歌7首、旋頭歌1首。
「さを鹿」の「さ」は、接頭語で、牡鹿のこと。「さを鹿の萩に貫き置ける露の白玉」は、朝の萩に露の繁く美しく置いているのを讃えたもの。「萩」は牡鹿の妻で、昨夜の逢瀬の別れを惜しんで泣いた涙が、露の白玉となって残っていると見ています。「あふさわに」は、軽々しく、軽率に、たやすくの意の副詞。「手に巻かむちふ」の「ちふ」は「といふ」の約。「誰れの人かも」の「かも」は、疑問と詠嘆。萩に置く朝露の白玉のように美しいのを手玉にしようとする人のあるのを見て、その露は牡鹿との別れを惜しんでの涙である、軽々しくそうしようと言うのは、いかにもあわれを知らない人であると、訝かり怪しんで咎めた歌です。他人の大切な女性を軽率に我がものにしようとする男を咎める寓意があるともいいます。
1548は題詞に「晩萩(おそはぎ)の歌」とある、大伴坂上郎女の歌。「をそろ」は、せっかち、早熟、軽率、ここでは早咲きの意。「をそろ」の語は、巻4-654に「恋ふといはばをそろと吾をおもほさむかも」の用例があります。「うとし」は、親しくない、好きになれない。「おくて」は、遅咲き、晩生。「及かず」は、及ばない。「けり」は、詠嘆または気づき。遅咲きの萩を讃えて詠んだ歌ですが、ただちに男女関係が連想される歌であり、せっかちで軽率な男性より落ちついた心の持ち主の方がよいとの寓意が込められています。国文学者の窪田空穂は「ある年齢に達した聡明な女性の心というべきである。安らかで、冴えた歌である」と評しています。
1549は、紀鹿人(きのかひと)による旋頭歌形式(5・7・7・5・7・7)の歌。題詞に「典鋳正(いもののかみ)紀朝臣鹿人(きのあそみかひと)、衛門大尉(えもんのだいじょう)大伴宿祢稲公(おおとものすくねいなきみ)が跡見(とみ)の庄に至りで作る」歌とあります。典鋳正は、典鋳司(金銀銅鉄の造鋳などを掌る役所)の長官で、正六位相当。紀鹿人は、大伴家持の恋人だった紀女郎の父にあたる人。「衛門大尉」は、衛門府(宮中の諸門の警護等を掌る役所)の三等官で、従六位相当。大伴稲公は、旅人の異母弟。「跡見の庄」は大伴氏の領地で、稲公はそこに住んでいました。
「射目」は、狩猟のときに弓を射る人が隠れて狙う場所。「射目立てて」は、射目を設けて獣の足跡を見る意で「跡見」にかかる枕詞。「なでしこの花」は、秋の七草の一つ。「ふさ」は、たくさん。現在の「ふっさり」は、その転かといいます。「奈良人」は奈良京にいる人で、なでしこの花を珍しがる人として言っているもの。跡見の庄への訪問を喜ぶ歌であり、主人の稲公への挨拶として詠んだものとされます。巻第6-990~991にも紀鹿人の作があり、同じ折の歌とみられます。
1550は、湯原王(ゆはらのおおきみ)の「鳴く鹿の歌」。湯原王は、天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に白壁王(光仁天皇)・春日王・海上女王らがいます。天平前期の代表的な歌人の一人で、父の端正で透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されており、家持に与えた影響も少なくないといわれます。兄弟の白壁王が聖武天皇の皇女(井上内親王)を妻として位階を進め、即位の約1年半後には、皇后や皇太子を廃して獄死させているのと比較すると、王は、人間らしい風雅の道を選んだらしくあります(本心や才能を隠しつつ政争から逃れ、一生無位だったともいわれます)。生没年未詳。『万葉集』には19首。
「散りの乱ひ」は、散って乱れること、散りまごう状態。他にも用例があり、成句になっていた語です。「呼び立てて」は、牡鹿が牝鹿を呼び立てて鳴いている意。広大な萩原の眺望を楽しんでいた時の瞬間的な光景を詠んだ歌であり、秋風によって萩の花が盛んに散るのに驚いた牡鹿が、牝鹿を呼び立てている声が聞こえると言っています。窪田空穂は、「『散りの乱ひ』の目前の景と、『声の遙けさ』のやや遠い景を対させ、萩原の広さを暗示にしているのも、用意をもってのことである」と述べています。

貴族の特権
官人貴族はすべてに特権階級であり、彼らには位田(いでん)・位禄(いろく:三位以上は位封)・季禄(今のボーナスにあたる)が与えられ、大臣クラスの年収は現代に換算すると1億円にも達するだろうと言われます。さらにこのほかに、五位以上の官人・親王に資人(しじん)・帳内(ちょうない)と呼ばれる従者が支給され、三位以上の官人・親王らには家司(けいし)が派遣されました。たとえば一位のものは資人100人、家司6人となっていました。
また官人はその最下位の初位(そい)にいたるまで何らかの免税が認められ、三位以上では親と子3代にわたってすべての租税が免除されました。そして蔭位(おんい)と呼ばれる特権は、親の位階によって子・孫の初任の官位が定められたもので、一位の者の嫡出子は従五位下、庶出子および孫は正六位に最初から任命されました。
当時の日本の全人口は600万人と推定されていますから、わずか数百人の官人のこのような特権生活を支えたのは、この残り大多数の人々でありました。
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