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巻第14(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第14-3466~3470

訓読

3466
ま愛(かな)しみ寝(ぬ)れば言(こと)に出(づ)さ寝(ね)なへば心の緒(を)ろに乗りて愛しも
3467
奥山の真木(まき)の板戸をとどと押(し)て我(わ)が開かむに入(い)り来て寝(な)さね
3468
山鳥(やまどり)の尾ろの初麻(はつを)に鏡(かがみ)懸(か)け唱(とな)ふべみこそ汝(な)に寄そりけめ
3469
夕占(ゆふけ)にも今夜(こよひ)と告(の)らろ我(わ)が背(せ)なは何故(あぜ)ぞも今夜(こよひ)寄(よ)しろ来まさぬ
3470
相(あひ)見ては千年(ちとせ)や去(い)ぬるいなをかも我(わ)れや然(しか)思ふ君待ちがてに

意味

〈3466〉
 可愛く思って共寝をすれば噂が立つ。だからといって共寝をしなければ彼女の姿が心に乗りかかってくる。何とも愛しくてたまらない。
〈3467〉
 奥山の真木で作った板戸、その板戸をごとごとと押して私が開けるから、さっと部屋に入って来て私と寝て下さいね。
〈3468〉
 山鳥の尾のような初麻を鏡を懸けて神様に唱えたからこそ、あなたに身を寄せるようになったのでしょうか。
〈3469〉
 夕占いに「今夜いらっしゃる」と出た愛しいあの方は、その今夜になってもどうして逢いに来て下さらないのだろう。
〈3470〉
 あなたとお逢いしてからもう千年が過ぎたのでしょうか。そうではなく、私だけがそう思っているだけなのかな。あなたを待ちかねて。

鑑賞

 3466の「ま愛しみ」の「ま」は接頭語で、可愛いので、愛しいので。「言に出」は、評判になる。「さ寝なへば」の「さ」は接頭語、「なへ」は、打消しの助動詞「なふ」の已然形で、共寝せずにいれば。「心の緒ろ」は、心を長く続くものとして、緒にたとえた表現。「ろ」は、接尾語。「乗る」は、(心に)取りついて離れない。「愛しも」は、かわいいことだ、切ないことだ。別居し、秘密にもしていた夫婦関係にあっては、絶えずこのような悩ましい恋心を抱いていたと見えます。

 3467の「奥山の」は「真木」の枕詞。「真木の板戸」は、杉や檜などの立派な木で作られた板戸。「とど」は、戸を叩く音の形容。「寝さね」の「ね」は、希求の終助詞。女から男に贈った歌で、それまでは秘密にしていた男との関係を、母に打ち明けて承認を得たので、堂々と板戸を開けることができると、喜んで報告しています。真木の板戸があるというのは、かなり大きな家だったとみられます。また、巻第11-2653に、馬の足音を「とど」と表現した歌があり、大きな音を立てる意味の「轟(とどろ)く」という動詞は、もともと擬声語の「とど」から来ていると推定できます。

 3468は難解とされ諸説ある歌ですが、『全注釈』の解釈に従います。「山鳥の」は、山鳥の尾が長いことから「尾」と続き、上8音が「初麻(はつを)」を導く同音反復式序詞。「初麻」は、その年に初めて収穫された麻。「唱ふべみこそ」は、唱うべき状態のゆえに。「べみ」は「べし」のミ語法。「汝」は、男の代名詞。「けめ」は、過去推量。新嘗祭で新穀を捧げるように、初麻を鏡に懸け、神に感謝する祭りのやり方があったのでしょうか。その効果があって、一緒にいられるようになったと、喜びの気持ちをうたっています。

 窪田空穂の解説によれば、「初麻の感謝祭ということは、文献的には証のないものであるが、信仰深い上代生活にあっては、ありうるものと思われるもので、証のないのは、それが普通のことであり、また新甞ほど重大には扱われなかったので、記載される機会がなかったがためで、そうした例は他にも多かろうと思われる。この歌は、山間あるいは山麓の、山鳥などを目にする機会のある部落の女が、部落共同で行なう初麻祭の夜、男と一緒になったということが機縁となって、後に関係が結ばれることになったので、関係の結ばれた後、その関係の成立ちをしみじみと追想し、喜びをもって男にいっている歌である。女の心理として自然なものである」。

 3469の「夕占」は、夕方道端に立ち、一定の区域を定めて米をまき、呪文を唱えなどして、そこを通る通行人のことばを聞いて吉凶禍福を占うこと。ここでは、愛する人が来るかどうかを占ったもの。「占」の語源は裏表(うらおもて)の「裏」で、裏に隠れている神意を表に現わすことを占(うら)と呼んだものです。また「告(の)る」の原意は、呪力ある言葉を発することであることから、占いの判断を「告る」と表現しています。「今夜と告らろ」は、今夜いらっしゃると出た。「告らろ」は「告れる」の訛り。「何故ぞも」は、どうして、なぜ。「寄しろ来まさぬ」の「寄し」は「寄り」の東国訛り、あるいは強意の表現。「ぬ」は連体形で、上の「ぞ」の係り結び。立ち寄って来てくださらないのか。当時の人々にとって、占いは単なる気休めではなく、神意を知るための真剣な手段でした。「占いがああ言ったのだから、絶対に来るはずだ」と信じ込み、耳を澄ませて待っている女性の姿が目に浮かびます。

 3470は、巻第11に重出(2539)。ただし、巻第11では作者未詳の歌として扱っており、ここでは『柿本人麻呂歌集』に出ているとあります。
 


庶民の住居

 当時の庶民が居住したのは、おおむね竪穴(たてあな)住居であった。竪穴を掘り、柱を立てたあとで屋根をかける方式は、縄文時代以来、基本的な建築技術は変わっていない。縄文時代には円形の床面をもつ竪穴が主流であったが、この時代には四角い床面が主流になってくる。竪穴の壁ぎわに沿って溝が掘られたものや、壁土が崩れないように土留め材を巡らせたものもあった。

 6世紀までは各地で竪穴住居が見られたが、7世紀になると、近畿地方、東海地方や中国地方ではあまり見られなくなってくる。国内におけるいわば先進地帯を中心に、平地をそのまま床面にしたり、地面の上に床を張った平地式の掘立柱(ほったてばしら)建物による住居が使われていた可能性が高い。

 縄文時代の竪穴住居には、各棟に必ず炉の跡があるが、古墳時代以降は、炉にかわって竈(かまど)が設けられるようになった。煙を屋外に出すために、竈は竪穴の壁ぎわにつくられ、炊事の場は壁ぎわに固定されるようになった。住居の床面は、10~20平方mの広さのものが多い。8畳の和室程度の広さと考えればよいだろう。入り口と炊事・貯蔵の場以外のスペースが、寝所ということになる。

 7世紀以降の東国の集落では、このような竪穴住居が5~6棟ほど、まとまって分布していることが多い。そして、こうした5~6棟ほどのグループがさらにいくつか集まって、集落が形成されている。集落のなかには、住居を建てないで維持している広場のような空間があり、集落全体で共有する作業場のように使われていたのだろう。

 そして8世紀になると、集落のなかの一区画に掘立柱建物が建てられるようになってくる。村の有力者が掘立柱建物を建てるようになってきたのであろう。こうした掘立柱建物の付近からは、帯飾りや硯(すずり)など、役人的存在をうかがわせるものが出土することも多く、村の有力者は、国家の末端とつながりをもつようになってきていたのである。

~『律令国家と万葉びと』から抜粋引用

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