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盧溝橋事件の真相

 「盧溝橋事件」は、1937年(昭和12年)7月7日夜、北京の郊外、永定河にかかる盧溝橋付近で始まった日中両軍の武力衝突事件で、4日後に停戦協定が成立したものの、日中戦争の発端になり、同月28日には日本軍が総攻撃を開始したというものです。しかし「盧溝橋事件」は決して日本軍が仕掛けたものではないという見解があります。それによると、次のように説明されています。

 ―― 当時、盧溝橋の近くに駐屯していた日本軍は夜間演習を行っていたが、暗闇から不意に銃撃を受けた。その時は付近に中国・国民党軍(蒋介石軍)も駐屯していたため、日本軍はその銃撃を国民党軍によるものと思い込み、それをきっかけに武力衝突が起こってしまった。

 中国の現政権は日本軍による先制攻撃だったと主張しているが、日本軍が最初に銃撃を受けた際、つまり演習をしていた際には、日本軍は実弾を持っていなかった。ところが国民党軍も同じように発砲を受けている。国民党軍は国民党軍で、日本軍から銃撃を受けたと思い込んだのだ。

 両軍は交戦状態に入ったものの、そのうち双方とも「どうもおかしい」と腑に落ちない点があり、4日後に停戦協定を結び事件不拡大方針で臨んだ。日本軍はこれ以上事を荒立てたくはないとの方針を立て、まして中国との全面戦争など望んではいなかった。

 実は日本軍・国民党軍双方に銃撃を加え、両軍を戦わせるように仕向けたのは中国共産党だった。共産党の工作員が夜陰にまぎれて、盧溝橋付近に駐屯していた日本軍と国民党軍にそれぞれ発砲し、両軍が戦いを始めるように仕掛けたのだ。翌日には、中国共産党は「対日全面抗争」を呼びかけ、兵士宛てのビラには、「盧溝橋事件は、わが優秀なる劉少奇同志の指示によって行われたものである」とうたわれていた。

 また終戦後、中華人民共和国が成立した時には、周恩来首相も、「あの時、我々の軍隊が日本軍・国民党軍双方に発砲し、両軍の相互不信をあおって停戦協定を妨害し、今日の我々の栄光をもたらした」と明言している。

 では共産党はなぜそのような行為に及んだのか? 当時、国民党に対して劣勢だった共産党は、何とか勢力回復を図りたいと考えていた。そこで日本軍と国民党軍を戦わせて双方を疲弊させ、その隙に乗じて中国全土の支配権を獲得しようと思い立った。狙いは的中し、最終的に共産党は国民党に勝利、中華人民共和国を成立させた。日本軍はまんまとハメられ、泥沼の日中戦争を戦わされたことになる。――

 いかがでしょう。ずいぶんとえげつないお話ではございませんか。

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