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ショスタコーヴィチの《交響曲第5番》

 故・宇野功芳先生によれば、ブラームスチャイコフスキーとともにクラシック作曲家の「3大ネクラ」の一人とされるショスタコーヴィチ。チャイコフスキーの場合は泣き節が大げさで、メロディーが甘美なので深刻さが薄れているけど、どうにも救われないのがショスタコーヴィチだって。後期の弦楽四重奏曲など聴くと、生きているのが嫌になるそうです。ずいぶんな言われ様です。

 1906年にロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで生まれ、ソビエト連邦時代に活躍したショスタコーヴィチ。当初は「モーツァルトの再来」と称えられたものの、共産党機関紙『プラウダ』の社説で、彼のオペラやバレエ音楽がブルジョワ的に過ぎるとの強い批判を受けたことから、立場は微妙になります。当時、『プラウダ』の社説はスターリンの意思が反映されたものとみなされていたからです。

 スターリンによる「大粛清」によって殺された人は700万人以上といわれ、ショスタコーヴィチも周囲の人間が逮捕・処刑されていくという厳しい状況に晒されました。いったん「人民の敵」とみなされれば、画家も音楽家も関係ありません。命の危険を感じたショスタコーヴィチは、監視されているから亡命もできません。そうした強い危機感から、既に完成していた《交響曲第4番》の発表を急きょ取りやめ、名誉回復を期して《交響曲第5番》の作曲に取りかかったとされます。

 はたして1937年11月の初演は大成功を収め、フィナーレの途中から興奮した聴衆が立ち上がり始め、終わると猛烈なステンディングオベレーションを浴びました。「苦難を乗り越えて最後に勝利する長い精神的闘争の物語」との作曲家によるメッセージが付されたこの曲を、ソ連作家同盟議長アレクセイ・トルストイは「社会主義リアリズム」のもっとも高尚な理想を示す好例だと絶賛し、当局からも「批判に対しての誠実な回答である」と認められました。

 この曲はそれまでの彼の曲とは大きく印象が異なり、古典的な形式で、聴きやすいメロディーが多く用いられました。また、ベートーヴェンの《第5番》のような「闘争から勝利へ」という内容が、「ソビエト革命」を象徴する曲だとして肯定的に受け入れられたのです。こうして、ショスタコーヴィチは名誉を回復することができましたが、西側からは「共産主義に迎合した」と評されることとなりました。

 ところがショスタコーヴィチは晩年になって、終楽章の喜びは真の喜びではなく強制された歓喜なのだ、と語ったというのです。彼と親交があった音楽学者がアメリカに亡命し、著書の中でそのように証言したのです。また「スターリン存命中に作った曲は生きるために書いたもので、内容は欺瞞に満ちている」との発言も。この衝撃は大きく、《第5番》の解釈は一変します。むしろ共産主義の圧迫に抗おうとした怨みの音楽である、と。しかし、後にこの発言の真偽が争われる事態になり、未だ決着していないそうです。

 いずれにしましても、多くのショスタコーヴィチの音楽を聴くとき、単にネクラというのとは本質的に異なる、彼が国家のありように対して抱いていたであろう緊迫した心の鬱屈、葛藤、反骨といったものを強く感じざるを得ません。さように政治的な臭いがプンプンする曲ではありますが、愛聴盤は、バーンスタイン指揮、ニューヨーク・フィルによる1979年の来日公演時におけるライブ録音です。ずっと《第5番》の決定的名演とされ定番となっている盤ですね。

宇野功芳(1930〜2016年)
 指揮者で音楽評論家。「音楽評論家である以上、好き嫌いではなく良し悪しを 語らなければならない」という信念のもと、自分だったらどのように演奏するかとの観点から、独自の評論を展開。一般的な評価や人気などには一切斟酌せず、表現は非常に辛辣で、たとえば「メータのブルックナーなど聴くほうがわるい、知らなかったとは言ってほしくない」とか「あの顔を見れば、およそどのような指揮をする人であるかは一目瞭然」など。しかし、優れていると思った演奏は、ふだん酷評してばかりいる演奏家であってもきちんと褒めている。
 


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テンポがくずれ、音のバランスが狂うと、甘い音楽も不快なもの。人の暮らしも同じなんだ。
 
〜シェイクスピア

 

 

 

 

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