墨家の創始者である墨子は、墨翟(ぼくてき)の尊称ですが、姓の「墨」は入れ墨の刑のことですから、本名ではなく、上層貴族やライバルの儒家などが卑しんで呼んだものともいわれます。出身地は魯(ろ)あるいは宋であるとされ、その生涯についてはほとんど不明ですが、戦国時代のはじめには、魯を拠点として集団を組織し、活動を開始していました。下層庶民の代表を自認する彼は、「墨」という呼び名をむしろ誇りとして集団の称としたようです。
当時の中国は、封建的社会体制が崩れる過程にあり、各国は自国内の中央集権的専制化を進める一方、対外的には侵略戦争による強大化をはかっていました。これに反対するため墨子は、かつて君主や貴族に隷属していた職能人らを大勢集め、最高リーダー鉅子(きょし)の統率によって、精鋭な思想集団、軍事組織へ変容させていきます。彼らのモットーは兼愛(相互愛の普遍化)と非攻(反戦平和)の実現であり、そのための王侯・貴族への説得術や、被侵略国を救援する城郭守禦といった実践活動を指導しました。
そして墨家集団は、大国の侵略戦争によって落城の危機に瀕した城邑があると、どこであろうと救援にかけつけ、多彩な守備技術によって弱小国を助けるようになります。なお、『墨子』公輸篇には次のような説話が載っています。
――あるとき楚の王は、伝説的な大工の公輸盤が開発した新兵器・雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策した。それを聞きつけた墨翟は急きょ楚に赴いて、公輸盤と楚王に、宋を攻めないように迫った。宋を攻撃する非を責められて困った楚王は、「墨翟が公輸盤と机上で模擬攻城戦を行い、墨翟がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしよう」と提案する。
さっそく両者による机上模擬戦が行われ、その結果、墨翟は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕があった。王の面前で面子を潰された公輸盤は、「自分には更なる秘策があるが、ここでは言わないでおきましょう」と意味深な言葉を口にした。そこですかさず墨翟は「秘策とは、私をこの場で殺してしまうことでしょう。しかし、すでに私の策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子たちが必ず宋を守ってみせます」と答え、再び公輸盤をやりこめた。
一連のやりとりを聞いていた楚王は感嘆し、宋を攻めないことを墨翟に誓った。こうして墨翟は宋を亡国の危機から救った。ところが楚からの帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨翟は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまった。――
何より墨家のすごいところは、強国に侵略されている小国があれば、実際にその地に赴き、傭兵となって強国に立ち向かったことです。城を守るノウハウを蓄積し、防御用の兵器も開発し、命がけで戦った彼らは、無念にも敗れたときは自害までしています。現代のどこかの平和団体のように、自分たちは安全なところにいて、ただ「反戦、反戦!」と叫んでいるのとは訳が違います。
墨子は、最初は儒学を学んでいたようです。しかし、やがて孔子のいう「仁」は身内や特定の者だけを大切にする「差別愛」なのではないかと疑うようになり、それが戦争の原因になっていると考えます。社会の混乱は「互いに愛し合わない」から生じるのであり、盗賊は我が身だけを愛して他人を愛そうとはしない。だから他人から奪って我が身に利益をもたらそうとする。諸侯は自分の国だけを愛して他国を愛そうとはしない。だから他国を侵略して自国に利益をもたらそうとする。これらはみな、互いに愛し合わないことが原因になっているのだ、と。
そして、墨子は「兼(ひろ)く愛する」という意味の「兼愛(けんあい)」を説きます。他人の家と自分の家とを同一視するなら、誰が盗んだりしようか。他国と自国を同一視するなら、誰が侵略したりするだろうかと述べ、自己と他者を区別せずに愛しなさいと主張したのです。さらに墨子は、一人の人間を殺せば正義に反するとして死刑になり、10人の人間を殺せば死刑10回分の罪に相当する、それなのに戦争で100人の人間を殺すのは正義だと褒めたたえる。そんなバカなことは絶対に許されないと訴えます。
やがて墨家の勢力は儒家の勢力と拮抗し、儒家と墨家をあわせて「顕学」と称されるようになりました。しかし、儒家の孟子は墨家を激しく忌避し、次のような言葉を残しています。
「楊朱(快楽主義を主張した人物)や墨翟の言が、天下に満ちている。楊朱の言葉でないものは墨翟の言葉であるほどのありさまだ。楊朱は自分のことを考えることばかり主張し、これは君を無視するものだ。墨翟は兼愛を主張するが、これは父を無視するものだ。父を無視し君を無視する者は、人間ではなく禽獣である」
ずいぶんひどい言われ様ですが、一方では、覇権争いのため軍拡に没頭していた諸侯の立場からは、その平和主義的な思想が相容れなかったところもあったようです。やがて墨子が亡くなると、墨家は2つあるいは3つの集団に分裂し、互いに相手を「別墨」と蔑称するようになりました。そして秦が天下を統一した頃に急速に衰退し、忽然と歴史から姿を消してしまったのです。
とまれ、長い世界の歴史のなかで、これほど実行力のある熱い人たちが実際にいたという事実は、大いに刮目すべきことと思います。
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墨子の言葉から
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