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源氏物語

「源氏物語」の先頭へ 各帖のあらすじ

梅枝(うめがえ)

■明石の姫君の裳着の準備

 御裳着(もぎ)のこと思し急ぐ御心おきて、世の常ならず。東宮(とうぐう)も、同じ二月に、御冠(かうぶり)のことあるべければ、やがて御参りもうち続くべきにや。

 正月のつごもりなれば、公私(おほやけわたくし)のどやかなる頃ほひに、薫物(たきもの)合はせ給ふ。大弐(だいに)の奉れる香(かう)ども御覧ずるに、なほ古(いにし)へのには劣りてやあらむと思して、二条院の御倉(みくら)開けさせ給ひて、唐(から)の物ども取り渡させ給ひて、御覧じ比ぶるに、「錦(にしき)、綾(あや)なども、なほ古き物こそなつかしう細やかにはありけれ」とて、近き御しつらひの物の覆(おほひ)、敷物、褥(しとね)などの端(はし)どもに、故院の御世の初めつ方、高麗人(こまうど)の奉れりける綾、緋金錦(ひごんぎ)どもなど、今の世の物に似ず、なほ様々御覧じ当てつつせさせ給ひて、このたびの綾羅(あやうすもの)などは人々に賜はす。

【現代語訳】
 明石の姫君の御裳着の儀式を準備なさる源氏の大臣のご配慮は、並々ではない。東宮も同じ二月に、御元服の儀式があることになっているので、そのまま姫君のご入内も引き続いてあるのだろう。

 正月の末なので、公私にわたってのんびりした時で、薫物を調合なさる。大臣(源氏)は、大宰大弐が献上した香などを御覧になると、やはり昔のものには劣っているのではないかとお思いになり、二条院のお蔵を開けさせなさって、唐来の品々をいろいろ取り出して持って来させて、大弐のと見比べなさると、「錦や綾なども、やはり古いもののほうが親しみがあって細やかだ」とおっしゃって、身近な調度品の掛け物や敷物、褥の端、故桐壺院の御代のはじめのころに高麗人が献上した多くの綾や緋金錦などは、今の時代のものとは違っており、さらにいろいろとご検分・お割り当てになって、このたび大宰大弐が献上してきた綾や薄物などは、女房たちにお与えになった。

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■裳着の式

 かくて、西の殿(おとど)に、戌(いぬ)の時に渡り給ふ。宮のおはします西の放出(はなちいで)をしつらひて、御髪上(みぐしあげ)の内侍(ないし)なども、やがてこなたに参れり。上も、このついでに、中宮に御対面あり。御方々の女房、押し合はせたる、数しらず見えたり。子(ね)の時に御裳(も)奉る。大殿油(おほとなぶら)ほのかなれど、御気配いとめでたし、と、宮は見奉り給ふ。大臣(おとど)、「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられ侍るなり。後の世の例(ためし)にやと、心せばく忍び思ひ給ふる」など聞こえ給ふ。宮、「いかなるべき事とも思ひ給へ分き侍らざりつるを、かうことごとしうとりなさせ給ふになむ、なかなか心おかれぬべく」と宣ひ、消(け)つ程の御気配、いと若く愛敬(あいぎやう)づきたるに、大臣(おとど)も、思す様(さま)にをかしき御気配どものさし集(つど)ひ給へるを、あはひめでたく思さる。

 母君の、かかる折だにえ見奉らぬを、いみじと思へりしも、心苦しうて、参(ま)う上(のぼ)らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて過ぐし給ひつ。かかる所の儀式は、よろしきにだに、いと事多くうるさきを、片端ばかり、例のしどけなくまねばむもなかなかにやとて、こまかに書かず。

【現代語訳】
 こうして西の御殿に、中宮(秋好中宮)は、戌の刻にお出向きになった。中宮のおすまいになる西の対の放出を儀式のために整え、御髪上役を務める内侍なども、まっすぐこちらに参られた。紫の上も、この機会に、中宮にご対面になる。それぞれのお付きの女房たちが一堂に来合わせて、数え切れないほどに顔を見せている。子の刻に姫君は御裳をお召しになる。大殿油の灯りはほのかで、姫君のご様子はまことに見事だと、中宮は御覧になる。大臣(源氏)は、「決してお見捨てにはなられまいと思い、娘の失礼な姿を御覧に入れます。腰結役をしていただくことが後世の先例になろうかと、狭い了簡でひそかに思うのでございます」など申し上げなさる。中宮は、「はじめはどんなことかと見当もつきませんでしたが、こうも大層に執り行われるのでは、かえって気が引けます」と、事もなげにおっしゃるご様子は、まことに若々しく親しみ深いので、大臣(源氏)も、理想通りにすぐれたご様子のご婦人方がお集まりなのを、めでたいこととお思いになる。

 母君(明石の君)が、こうした折にさえ姫君にお目にかかれないのを、辛く思い、参上させようかとお思いにもなったが、人の噂を懸念して、そのまま参上させずおすましになった。こうした場所での儀式は、普通であっても決まりが多く煩雑で、その一端だけを書いてもまとまりがなくなってしまうので、こまかくは書かない。

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■源氏の書家評

 「よろづの事、昔には劣りざまに、浅くなりゆく世の末なれど、仮名(かんな)のみなむ、今の世はいと際(きは)なくなりたる。古き跡は、定まれるやうにはあれど、広き心豊かならず、一筋に通ひてなむありける。妙(たへ)にをかしきことは、外(と)よりてこそ、書き出づる人々ありけれど、女手を心に入れて習ひし盛りに、こともなき手本多く集(つど)へたりし中に、中宮の母御息所の、心にも入れず走り書い給へりし一行(ひとくだり)ばかり、わざとならぬを得て、際ことに覚えしはや。さてあるまじき御名も立て聞こえしぞかし。悔しき事に思ひしみ給へりしかど、さしもあらざりけり。宮にかく後見(うしろみ)仕うまつる事を、心深うおはせしかば、亡き御影(かげ)にも見直し給ふらむ。宮の御手は、細かにをかしげなれど、かどや後れたらむ」と、うちささめきて聞こえ給ふ。

 「故入道の宮の御手は、いと気色深うなまめきたる筋はありしかど、弱き所ありて、匂ひぞ少なかりし。院の尚侍(ないしのかみ)こそ、今の世の上手におはすれど、余りそぼれて、癖ぞ添ひためる。さはありとも、かの君と、前斎院と、ここにとこそは書き給はめ」と許し聞こえ給へば、「この数には眩(まば)ゆくや」と聞こえ給へば、「いたうな過ぐし給ひそ。にこやかなる方のなつかしさは、ことなるものを。真字(まんな)の進みたる程に、仮名はしどけなき文字こそ交じるめれ」とて、まだ書かぬ冊子(さうし)ども作り加へて、表紙、紐などいみじうせさせ給ふ。「兵部卿の宮、左衛門の督(かみ)などにものせむ。自ら一具(ひとよろひ)は書くべし。気色ばみいますかりとも、え書き並べじや」と、我(われ)ぼめをし給ふ。

【現代語訳】
 源氏は、「万事、今のものは昔に劣り、悪くなっていく末世だが、仮名だけは、今の世のものが優れています。昔の筆跡は、決まった書法があったようで、ゆったりした感じがなく、一様に似通ったものになっています。優美で立派なものは、後の時代になって書ける人々が出てきたけれども、私が女文字を熱心に習っていたころは、よい手本を多く集めた中に、中宮の母の御息所(六条御息所)が何気なく走り書きなさった一行ほどの無造作なのを手に入れて、格別に優れていると思ったものです。それがために、けしからぬ浮名をお立て申すことになり、母宮はそれを無念なことと思いつめておられましたが、私はそれほどには思いません。中宮(秋好中宮)のお世話役をこうしてお勤めしていることを、御息所は思慮深い御方だったから、草葉の陰からでも私のことを見直して下さっていることでしょう。中宮のご筆跡は、こまやかで趣深いですが、才気に少し欠けているようです」と、小声で仰せになる。

 「故入道の宮(藤壺)のご筆跡は、まことに深みがあり優美なところはありましたが、か弱いところがあって、華やかさに欠けていました。院の尚侍(朧月夜)こそ今の世の名人でいらっしゃいますが、あまりに洒落っ気がありすぎて癖が強いようです。しかし、かの朧月夜の君と、前斎院(朝顔の姫君)と、あなた(紫の上)こそ、上手だと思います」とお認めなさると、紫の上は、「その人々の中に入れられては、気が引けます」と申し上げなさると、源氏は、「そう謙遜なさってはいけません。和やかな親しみを感じさせる点では格別です。一般に、漢字がうまくなってくるにつれて、仮名はまとまりのない文字がまじるようです」と、まだ何も書いていない冊子などを作り加えて、表紙や紐などは立派にお作らせになる。源氏は、「兵部卿宮や左衛門督などにも書いてもらいましょう。私も上下一冊は書きましょう。たとえこの御方々が本気でお書きになったとしても、私がそれと並べないことはないでしょう」と、自賛なさる。

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■左衛門の督の書

 唐(から)の紙の、いとすくみたるに、草(さう)書き給へる、すぐれてめでたしと見給ふに、高麗(こま)の紙の、肌こまかに和(なご)うなつかしきが、色などは華やかならで、なまめきたるに、おほどかなる女手の、うるはしう心とどめて書き給へる、たとふべきかたなし。見給ふ人の涙さへ、水茎(みづぐき)に流れ添ふ心地して、飽く世あるまじきに、また、ここの紙屋(かんや)の色紙の、色あひ華やかなるに、乱れたる草の歌を、筆にまかせて乱れ書き給へる、見所限りなし。しどろもどろに愛敬づき、見まほしければ、さらに残りどもに目も見やり給はず。

 左衛門の督は、ことごとしう賢げなる筋をのみ好みて書きたれど、筆の掟(おき)て澄まぬ心地して、いたはり加へたる気色なり。歌なども、ことさらめきて、選り書きたり。

【現代語訳】
 唐渡りのたいそう固い紙に、草書でお書きになっているのが、見事にすばらしいと、宮が御覧になると、また高麗の紙の、きめが細やかで柔らかな感じで、色は派手ではなく優美な紙に、おおらかな女文字で、美しく心を込めて書きなっているのは、たとえようもなくすばらしい。見る人の涙までも、筆の跡に流れ添うような心地がして、見飽きることがない。また国産の紙屋の色紙の、色あいが華やかなのに、乱れ書きした草仮名の歌を、筆にまかせて乱れ書いていらっしゃるのも、どこまでも見事である。あれこれと魅力があっていつまでも見ていたいので、宮は、大臣の書いた以外の草子には、まったく目もおやりにならない。

 左衛門督は、仰々しく才気立った書風ばかりを好んでお書きになっているが、筆の運び方が垢抜けない感じがして、無理に技巧を凝らしているようすが見える。歌なども、わざとらしい選び方で書いてある。

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藤裏葉(ふじのうらば)

■内大臣邸の藤花の宴

 月は差し出でぬれど、花の色さだかにも見えぬ程なるを、もてあそぶに心を寄せて、大御酒(おほみき)参り、御遊びなどし給ふ。大臣、程なく空酔(そらゑひ)ひをし給ひて、乱りがはしく強(し)ひ酔(ゑ)はし給ふを、さる心していたうすまひ悩めり。「君は、末の世には余るまで天(あめ)の下の有職(いうそく)にものし給ふめるを、齢(よはひ)(ふ)りぬる人思ひ捨て給ふなむ辛かりける。文籍(ぶんせき)にも家礼(けらい)といふ事あるべくや。なにがしの教へもよく思し知るらむと思ひ給ふるを、いたう心悩まし給ふと恨み聞こゆべくなむ」など宣ひて、酔(ゑ)ひ泣きにや、をかしき程に気色ばみ給ふ。「いかでか。昔を思う給へ出づる御代はりどもには、身を捨つる様にもとこそ思ひ給へ知り侍るを、いかに御覧じなす事にか侍らむ。もとより愚かなる心の怠りにこそ」とかしこまり聞こえ給ふ。御時よくさうどきて、「藤の裏葉の」と、うち誦(ず)じ給へる、御気色を賜りて、頭の中将、花の色濃く殊に房長きを折りて、客人(まらうど)の御盃(さかづき)に加ふ。取りてもて悩むに、大臣、

 紫にかごとはかけむ藤の花まつよりすぎてうれたけれども

宰相、盃を持ちながら、気色ばかり拝し奉り給へる様、いとよしあり。

【現代語訳】
 月は昇ってきたが、藤の花の色がさだかに見えない時分であるのに、花を愛でる風をして、お酒を召し上がり、管弦のお遊びなどをなさる。内大臣は、ほどなく空酔をなさって、宰相に強いてお酒をすすめてお酔わせになるのを、宰相は用心して断るのを困っていらっしゃる。内大臣が、「貴方は、この末世には過ぎるほどの天下の識者でいらっしゃるらしいのに、齢を取った人をお見捨てになるとはつれない。昔の書物にも父子の礼が書かれてあるはずで、聖人の教えもよくご存知のはずと思っているのに、ひどく私の心をお悩ましになられると、お恨み申したい」などとおっしゃって、酔い泣きというか、意中をことさらにほのめかしていらっしゃる。夕霧は、「どうしてそのような。今は亡き方を思い出すよすがの身代わりにとも思っていますのに、何と思し召してそのようにおっしゃいますか。もとより私の至らなさから来ていることですが」と、恐縮して申し上げなさる。内大臣は、頃合いを見て、「藤の裏葉の」とお口ずさみになられる。そのご意向をお受けして、頭中将(柏木)が、藤の花の色が濃くて特に房の長いのを手折って、客人のお盃に添える。宰相がこれを受け取ってもてあましていると、内大臣が、
 
藤の花の紫にことよせて免じましょう。娘をさんざん待たせた貴方がいまいましいけれども。

宰相が盃を持ったまま、形ばかり、お礼の所作をなさった様子は、まことに上品である。

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■六条院行幸

 夕風の吹き敷く紅葉(もみぢ)の色々、濃き薄き、錦を敷きたる渡殿(わたどの)の上見えまがふ庭の面(おも)に、容貌(かたち)をかしき童べの、やむごとなき家の子どもなどにて、青き赤き白橡(しらつるばみ)、蘇芳(すはう)、葡萄染(えびぞめ)など、常のごと、例の角髪(みづら)に、額(ひたひ)ばかりの気色を見せて、短きものどもをほのかに舞ひつつ、紅葉の蔭に帰り入る程、日の暮るるもいとほしげなり。楽所(がくしよ)などおどろおどろしくはせず、上(うへ)の御遊び始まりて、書司(ふんのつかさ)の御琴(こと)ども召す。物の興せちなる程に、御前(ごぜん)にみな御琴ども参れり。宇陀の法師の変らぬ声も、朱雀院は、いとめづらしくあはれに聞こし召す。

 秋を経て時雨(しぐれ)降りぬる里人もかかる紅葉の折りをこそ見ね

恨めしげにぞ思したるや。帝、

 世の常の紅葉とや見るいにしへの例(ためし)に引ける庭の錦を

と聞こえ知らせ給ふ。御容貌いよいよねび整ほり給ひて、ただ一つ物と見えさせ給ふを、中納言の侍ひ給ふが、ことごとならぬこそめざましかめれ。あてにめでたき気配や、思ひなしに劣りまさらむ、あざやかに匂はしき所は、添ひてさへ見ゆ。笛仕うまつり給ふ、いと面白し。唱歌の殿上人、御階(みはし)に侍ふ中に、弁の少将の声すぐれたり。なほさるべきにこそと見えたる御仲らひなめり。

【現代語訳】
 夕風が吹き散らした紅葉のさまざまの色の濃いの薄いの、錦を敷いた渡殿の上かと見まごうほどの庭の面に、容貌すぐれた童たちの、高貴な家の子供などであるが、青と赤の白橡や赤みがかった白橡に、蘇芳、葡萄染などの下襲をいつものように着て、例によって髪は角髪に結い、額に天冠だけをつけた唐風の姿であらわれて、短い曲を少し舞っては、紅葉の蔭に帰っていくようすは、日が暮れるのも惜しいほどであった。楽所など大げさな演奏はせず、堂上の管弦が始まってから、書司のいくつかの御琴をお取り寄せになる。一座の興が高まってきた頃に、お三方の御前にそれぞれ御琴を差し上げた。名器である宇陀の法師の昔と少しも変わらない音色も、朱雀院は、久しぶりにしみじみとお聞きになる。

 
宮中を去って幾度かの秋を過ごし、時雨の降るにつれて年老いた私も、こんなに素晴らしい紅葉の時節に会ったことがありません。

と、恨めしげにお思いのようである。帝は、

 
これを世の常の紅葉と思って御覧になりますか。かつての紅葉の御賀の例にならった今日の宴の紅葉の錦でございますのに。

とお知らせ申し上げになる。帝は、御容貌がご成長なさるにつれてますます立派に整ってこられ、六条院(源氏)と瓜二つとお見えになられるが、中納言(夕霧)が御前に控えていらっしゃるのが、これまた別々のお顔とも思えず、目を見張るほどである。気品があって立派な感じでは、思いなしか帝に劣っているにしても、すっきりした美しさでは、中納言(夕霧)のほうがまさっているとまで見える。中納言が笛の役をおつとめになり、その様はまことに風情がある。唱歌の殿上人が、階段に控えて歌う中に、弁少将の声が見事である。やはりこのように、優れた方々ばかりがお揃いになるご両家のようである。

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若菜(わかな)上

■朱雀院、出家を志す

 朱雀院(すざくゐん)の帝、ありし御幸(みゆき)の後(のち)、そのころほひより、例ならず悩みわたらせ給ふ。もとよりあつしくおはします中(うち)に、この度は物心細く思しめされて、「年ごろ行ひの本意(ほい)深きを、后(きさい)の宮のおはしましつるほどは、よろづ憚(はばか)り聞こえさせ給ひて、今まで思しとどこほりつるを、なほその方(かた)に催すにやあらむ、世に久しかるまじき心地なむする」など宣はせて、さるべき御心まうけどもせさせ給ふ。

 御子(みこ)たちは、東宮(とうぐう)をおき奉りて、女宮たちなむ四所(よところ)おはしましける。その中に、藤壺(ふぢつぼ)と聞こえしは、先帝(せんだい)の源氏にぞおはしましける、まだ坊と聞こえさせしとき参り給ひて、高き位にも定まり給ふべかりし人の、とり立てたる御後見(うしろみ)もおはせず、母方もその筋となくものはかなき更衣腹(かういばら)にて物し給ひければ、御まじらひの程も心細げにて、大后(おほきさい)の尚侍(ないしのかみ)を参らせ奉り給ひて、かたはらに並ぶ人なくもてなし聞こえ給ひなどせし程に、気(け)おされて、帝も御心の中(うち)にいとほしきものには思ひ聞こえさせ給ひながら、おりさせ給ひにしかば、かひなく口惜しくて、世の中を恨みたるやうにて亡せ給ひにし、その御腹の女三の宮を、あまたの御中にすぐれてかなしきものに思ひかしづき聞こえ給ふ。そのほど御年十三四ばかりおはす。「今は、と背(そむ)き捨て、山籠(やまごも)りしなむ後の世にたちとまりて、誰(たれ)を頼む蔭(かげ)にて物し給はむとすらむ」と、ただこの御事をうしろめたく思し嘆く。

 西山なる御寺(みてら)造りはてて、移ろはせ給はむ程の御いそぎをせさせ給ふに添へて、またこの宮の御裳着(もぎ)のことを思しいそがせ給ふ。院の内にやむごとなく思す御宝物(たからもの)、御調度(てうど)どもをばさらにも言はず、はかなき御遊び物まで、少し故(ゆゑ)ある限りをば、ただこの御方にと渡し奉らせ給ひて、その次々をなむ、他御子(ことみこ)たちには、御処分(おほむそうぶん)どもありける。

【現代語訳】
 朱雀院の帝は、先だっての行幸の後、その頃から、ずっとご病気でお苦しみでいらっしゃる。もともとご病弱であり、今回はことさらに細くお思いなさって、「年来の出家の念願は深く、御母后(弘徽殿大后)がご在世中は、万事ご遠慮申し上げ、今まで気持ちを抑えてきたが、やはり仏の道に心が動くのだろうか、そう長くは生きていられない気がする」などとお仰せられて、そのためのご準備をなさる。

 御子たちは、東宮を別にして、女宮が四人いらっしゃった。その中に、藤壺(源氏女御:藤壺中宮の異母妹)と申し上げた御方は、先帝(桐壺帝の前の帝)の皇女でいらっしゃったが、朱雀院がまだ東宮の時に入内なさって、高い位におつきになるはずの御方でいらしたが、これといった後見人もいらっしゃらず、母方も名のある家柄ではなく、はかない更衣腹でいらしたから、宮仕えのようすも心細げで、弘徽殿の大后が、朧月夜の尚侍を参らせ申し上げなさって、朱雀院がこの尚侍を並ぶ人もないほどご寵愛なさると、それに圧倒されて、院も御心の中ではこの藤壺を愛しくお思いになりながらも、ご譲位なさった後はどうにも打つ手がなく、この更衣は、世を恨むようにしてお亡くなりになった。院は、その藤壺の御腹の女三の宮を、多くの御子たちの中でも、ことさら可愛がって大切にされている。そのころの御年は十三、四くらいでいらっしゃった。「今は最後と世を捨てて、出家入山した後に残りとどまって、誰を頼って生きていったらいいのだろう」と、ただこの事を心配され、お嘆きになる。

 西山にあるお寺を造り終えて、そこにお移りになるご準備をなさるのに加えて、一方では、この女宮の御裳着の儀式をご準備なさる。院の御所にある物で大切にお思いになる数々の御宝物、御調度品は申すまでもなく、何ということもないお遊び道具まで、少しでも由緒あるものはすべて、ただこの姫宮にとお贈り申し上げなさって、それに次ぐ品々を、他の御子たちに分配なされた。

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■源氏、女三の宮の後見人になる

(一)
 またの日、雪うち降り、空の気色もものあはれに、過ぎにし方行く先の御物語聞こえかはし給ふ。「院の頼もしげなくなり給ひにたる、御とぶらひに参りて、あはれなることどものありつるかな。女三の宮の御事を、いと捨てて難げに思して、しかじかなむ宣はせつけしかば、心苦しくて、え聞こえ辞(いな)びずなりにしを、ことごとしくぞ人は言ひなさむかし。今はさやうのこともうひうひしく、すさまじく思ひなりにたれば、人づてに気色ばませ給ひしには、とかくのがれ聞こえしを、対面のついでに、心深きさまなる事どもを宣ひ続けしには、えすくずくしくも返さひ申さでなむ。深き御山住みにうつろひ給はむ程にこそは、渡し奉らめ。あぢきなくや思さるべき。いみじき事ありとも、御ためあるより変はる事はさらにあるまじきを、心なおき給ひそよ。かの御ためこそ心苦しからめ。それもかたはならずもてなしてむ。誰(たれ)も誰ものどかにて過ぐし給はば」など聞こえ給ふ。

 はかなき御すさびごとをだに、めざましきものに思して、心安からぬ御心ざまなれば、いかが思さむと思すに、いとつれなくて、「あはれなる御譲りにこそはあなれ。ここには、いかなる心を置き奉るべきにか。めざましく、かくてはなど咎めらるまじくは、心安くてもはべなむを、かの母女御の御方ざまにても、疎(うと)からず思し数(かず)まへてむや」と卑下し給ふを、「あまり、かううちとけ給ふ御許しも、いかなればと、うしろめたくこそあれ。まことは、さだに思し許いて、我も人も心得て、なだらかにもてなし過ぐし給はば、いよいよあはれになむ。ひが言(ごと)聞こえなどせむ人の言(こと)、聞き入れ給ふな。すべて世の人の口といふものなむ、誰(た)が言ひ出づる事ともなく、おのづから人の仲らひなど、うちほほゆがみ、思はずなる事出で来るものなめるを、心ひとつにしづめて、有様に従ふなむよき。まだきに騒ぎて、あいなきもの恨みし給ふな」と、いとよく教へ聞こえ給ふ。

【現代語訳】
 翌日、雪が降り、空模様もしみじみとした日、お二人(源氏と紫の上)は、過ぎた昔のことや将来のことをお話し合いになる。源氏は、「院(朱雀院)がお弱りになっているのをお見舞いに参上したところ、心打たれることがいろいろありました。院は、女三の宮の御事を、とても残して行く気がなさらず、これこれのことを私に仰せられたので、おいたわしくてお断りすることもできなかったのですが、大げさに皆は言い立てるでしょう。この年になるとそのようなことも気恥ずかしく、とんでもないと思うようになりましたので、院から人づてにそれとなく打診してこられた時は、あれこれ言い逃れしてお断り申しあげたのですが、直接お目にかかった折に、心に深くお思いの事をいろいろとおっしゃったので、すげなくごお断りすることもできませんでしてね。院が山深いお寺にお移りになる頃には、女宮(女三の宮)をお迎え申しあげることになるでしょう。不愉快にお思いでしょうが、どんなことがあっても、あなたにこれまでと変わることなど決してないのだから、心隔てなどなさいますな。あの方こそお気の毒な立場です。女宮のことを、見苦しくなくお迎えしましょう。誰も誰も、大らかな気持ちでお暮らしになれば」など申しあげなさる。

 ちょっとした浮気心でさえ、紫の上はもってのほかと、心穏やかではいらっしゃれないご性分なので、どうお思いになるだろうと心配なさると、紫の上は、まことにあっさりと、「おいたわしいご依頼であったものですね。私が、何の心隔てをいたしましょうか。私のことを目障りで、まだいるのはけしからぬなどとお咎めがない限り、私は心安くしております。あちらの母女御さまのご縁からも、私のことを縁遠いものとはお考えにならないでしょう」と、ご謙遜なさるので、源氏は、「そんなにも、そっけなくお許しくださるのも、どうしてかと、気になります。実際のところ、お互いが思いやり、こちらも先方もそれを心得て、穏やかにお付き合いしてくだされば、たいそう嬉しい気持ちです。いい加減な噂話などは、お聞き入れになりますな。すべて世間の噂というものは、誰が言い出すということもなく、自然と、人の夫婦仲などについて、事実と異なる、意外な話が出てくるもののようですから、ご自分の心一つにおさめて、成り行きに従うのがよろしい。先走って騒いで、つまらない嫉妬などなさいますな」と、十分にお教え申しあげになる。

(二)
 心の中(うち)にも、「かく空(そら)より出で来にたるやうなることにて、のがれ給ひ難きを、憎げにも聞こえなさじ。わが心に憚(はばか)り給ひ、諌(いさ)むることに従ひ給ふべき、おのがどちの心より起これる懸想(けさう)にもあらず、堰(せ)かるべき方(かた)なきものから、をこがましく思ひむすぼほるるさま、世人(よひと)に漏り聞こえじ。式部卿の宮の大北(おほきた)の方、常にうけはしげなる事どもを宣ひ出でつつ、あぢきなき大将の御事にてさへ、あやしく恨みそねみ給ふなるを、かやうに聞きて、いかにいちじるく思ひあはせ給はむ」など、おいらかなる人の御心といへど、いかでかはかばかりの隈(くま)はなからむ。今はさりともとのみ、わが身を思ひあがり、うらなくて過ぐしける世の、人わらへならむ事を、下(した)には思ひつづけ給へど、いとおいらかにのみもてなし給へり。

【現代語訳】
 紫の上のご心中、「このような空から降ってきたようなことで、殿(源氏)もお断りになりづらかったろうし、憎らしい申しようはすまい。私の気持ちにご遠慮なさり、私がお諫めできるような、当人同士の心による懸想でもないし、止めようもないので、愚かにも思い沈んでいるさまは見せまい。式部卿宮の北の方は、いつも呪わしげなことを言い出しなさっては、つまらない髭黒大将の御事についてまで、妙にこちらを恨み妬んでいらっしゃるというから、このようなことを聞いたら、さぞかし、それ見たことかとお思いになるだろう」などと、大らかなご気性とはいえ、どうして、この程度の邪推をなさらないことはあろう。いくら殿が好色でいらっしゃっても、今はさすがにもう安心とばかり、いい気になって、無邪気に過ごしてきた日々が、世間の物笑いになるだろうと内心では心配し続けていらっしゃるが、表面上は、まことに穏やかにふるまっていらっしゃる。

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■紫の上の悩み

(一)
 三日(みか)がほどは、夜離(よが)れなく渡り給ふを、年ごろ、さも馴らひ給はぬ心地に、忍ぶれど、なほものあはれなり。(中略)

 年ごろ、さもやあらむと思ひし事どもも、今はとのみもて離れ給ひつつ、さらば、かくにこそはとうちとけゆく末に、ありありて、かく世の聞き耳もなのめならぬ事の出で来(き)ぬるよ、思ひ定むべき世の有様にもあらざりければ、今より後(のち)もうしろめたくぞ思しなりぬる。(中略)

【現代語訳】
 正式な結婚の作法として、三日の間は、毎夜欠かさず女宮のほうにおいでになられるので、紫の上は、長年そのようなお扱いには馴れていらっしゃらないお気持ちに、こらえようとしても、やはり抑えきれぬ悲しみが染みわたる。

 これまでの年月、もしかしたらと思った女性方の関係もたびたびあったが、今はもうすっかり清算なさったご様子で、ならばもう大丈夫と安心していたところに、今頃になって、こうして世間に聞かれては恥ずかしい事が起こってしまうとは。安心していられる夫婦仲ではなかったのだとわかってみれば、今後もどうなっていくか分からないと、不安な気持ちになってしまわれた。

(二)
 「あまり久しき宵居(よひゐ)も例ならず人や咎めむ」と、心の鬼に思して入り給ひぬれば、御衾(ふすま)参りぬれど、げにかたはら寂しき夜な夜な経(へ)にけるも、なほただならぬ心地すれど、かの須磨の御別れの折りなどを思し出づれば、「今は、とかけ離れ給ひても、ただ同じ世の中(うち)に聞き奉らましかばと、わが身までのことはうち置き、あたらしく悲しかりし有様ぞかし、さてその紛れに、我も人も命たへずなりなましかば、言ふかひあらまし世かは」と思しなほす。

 風うち吹きたる夜の気配冷ややかにて、ふとも寝入られ給はぬを、近く候ふ人々あやしとや聞かむと、うちも身じろき給はぬも、なほいと苦しげなり。夜深き鶏(とり)の声の聞こえたるも、ものあはれなり。

 わざとつらしとにはあらねど、かやうに思ひ乱れ給ふけにや、かの御夢に見え給ひければ、うちおどろき給ひて、いかにと心騒がし給ふに、鶏(とり)の音(ね)待ち出でたまへれば、夜深きも知らず顔に、急ぎ出で給ふ。いといはけなき御有様なれば、乳母(めのと)たち近く候ひけり。妻戸押し開けて出で給ふを、見奉り送る。明けぐれの空に、雪の光り見えておぼつかなし。名残までとまれる御匂ひ、「闇はあやなし」と独りごたる。

【現代語訳】
 紫の上は、「あまり夜遅くまで起きているのも、例にないことと女房たちが不審がるだろう」と、気がとがめて、寝所にお入りになり、夜具をおかけしたが、まことに隣に殿がいない寂しい夜が続き、やはり心穏やかならぬお気持ちであるが、あの須磨のお別れの時どを思い出しになると、「殿がもうこれまでと遠くに行ってしまわれても、ただ同じこの世の中にご無事でいらっしゃると分かれば、わが身のことはさておいても、殿の御身をもったいなく悲しいことと思ったことだった。もしあのまま、あの騒ぎに紛れて、私も殿も死んでしまっていたら、問題にならない二人の仲になっていたろうに」と、お思い直しになる。

 風が吹いている夜の気配は冷ややかで、すぐには寝つかれないのを、近くにお仕えする女房たちが妙に思うだろうと、身じろぎ一つなさらないのも、やはりひどく辛げである。夜深くなって、鶏の声が聞こえてくるのも、しみじみと悲しく感じられる。

 ことさら恨んでいらっしゃるというのではないが、紫の上がこのように思い乱れていらっしゃるせいか、源氏の御夢にそのお姿がお見えになったので、はっと目をお覚ましになり、どうしたことかと胸騒ぎなさるので、待ちかねた一番鶏の声を聞くやいなや外にお出になると、まだ夜が深いのも気づかぬふりで、急いでお出になる。女三の宮は、とても子供っぽいご様子なので、乳母たちが近くにお仕えしていた。源氏が、妻戸を押し開けてお出になるのを、お見送りする。明け方のほの暗い空に、雪明かりが白く見えて、あたりはまだぼんやりしている。源氏がお帰りになった後に残っている御匂いに、乳母は、つい「闇はあやなし」と、独りつぶやく。

(三)
 雪は所々消え残りたるが、いと白き庭の、ふとけぢめ見えわかれぬ程なるに、「なほ残れる雪」と忍びやかに口ずさみ給ひつつ、御格子(かうし)うち叩き給ふも、久しくかかる事なかりつるならひに、人々も空寝(そらね)をしつつ、やや待たせ奉りて引き上げたり。「こよなく久しかりつるに、身も冷えにけるは。怖(お)ぢ聞こゆる心のおろかならぬにこそあめれ。さるは罪もなしや」とて、御衣(ぞ)ひきやりなどし給ふに、少し濡れたる御単衣(ひとへ)の袖を引き隠して、うらもなく懐かしきものから、うち解けてはたあらぬ御用意など、いと恥づかしげにをかし。「限りなき人と聞こゆれど、難(かた)かめる世を」と思し比べらる。

 よろづ古(いにしへ)の事を思し出でつつ、解けがたき御気色を恨み聞こえ給ひて、その日は暮らし給ひつれば、え渡り給はで、寝殿には御消息(せうそこ)を聞こえ給ふ。「今朝の雪に心地あやまりて、いと悩ましく侍れば、心安き方にためらひ侍る」とあり。御乳母、「さ聞こえさせ侍りぬ」とばかり、言葉に聞こえたり。「ことなる事なの御返りや」と思す。「院に聞こし召さむこともいとほし、この頃ばかりつくろはむ」と思せど、えさもあらぬを、「さは思ひし事ぞかし。あな苦し」とみづから思ひ続け給ふ。女君も、思ひやりなき御心かな、と苦しがり給ふ。

【現代語訳】
 雪は所々消え残っていて、真っ白くなった庭は、その境目も分からないほどで、源氏は、「猶残れる雪」と小声でお口ずさみになりながら、下ろしてある格子をお叩きになるが、長らくこんな朝帰りなどなかったので、紫の上の味方をする女房たちも寝たふりをしつつ、しばらくお待たせ申してから、やっと格子をひき上げた。源氏は、「ずいぶん長く待たされて、体もすっかり冷えてしまった。こうして帰ってきたのは、あなたを怖がる気持ちが一通りでないからです。とはいえ、私には何の罪もないのだが」とおっしゃりながら、御夜具を引きのけなさると、紫の上は、すこし涙に濡れている単衣の袖をそっと隠して、何のお恨みもなく優しくしていらっしゃり、かといってすっかり打解けた気配を見せない御心遣いなど、顔向けができないほどに立派で奥ゆかしい。この上ない身分の御方といっても、ここまでの人はいないものよと、つい女三の宮とお比べになる。

 源氏は、あれこれ今までの事を思い出しになられて、紫の上がご機嫌をなかなか直してくだされないのをお恨み申しあげて、その日はお過ごしになったため、女三の宮のもとへはおいでにならず、寝殿にお手紙だけをお差しあげなさる。「今朝の雪で気分が悪くなり、ひどく苦しいものですから、落ち着ける所で休んでおります」とある。御乳母は、「そのように申しあげました」とだけ、口頭でご返事を申しあげてきた。「素っ気ない御返事だな」と、源氏はお思いになる。「院(朱雀院)がお耳になさってはおいたわしい。当分の間は人前で取り繕おう」とお思いになるが、それもできないので、「やはり思った通りだ。ああ困ったものよ」と、独りいつまでも思案にくれていらっしゃる。紫の上も、「思いやりのない御心ですこと」と、迷惑がりなさる。

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■明石の女御と明石入道

(一)
 「この年ごろは、同じ世の中のうちにめぐらひ侍りつれど、何かは、かくながら身を変へたるやうに思う給へなしつつ、させる事なき限りは聞こえ承らず。仮名文(かなぶみ)見給ふるは目の暇(いとま)いりて、念仏も懈怠(けだい)するやうに益(やく)なうてなむ、御消息も奉らぬを、伝(つて)に承れば、若君は、東宮(とうぐう)に参り給ひて、男宮(をとこみや)生まれたまへる由をなむ、深く喜び申し侍る。そのゆゑは、みづからかくつたなき山伏(やまぶし)の身に、今更にこの世の栄えを思ふにも侍らず、過ぎにし方(かた)の年ごろ、心ぎたなく、六時の勤めにも、ただ御事を心にかけて、蓮(はちす)の上の露の願ひをば、さし置きてなむ、念じ奉りし。

 わが御許(おもと)、生まれ給はむとせしその年の二月のその夜の夢に見しやう、みづから須弥(すみ)の山を右の手に捧(ささ)げたり、山の左右より、月日の光さやかにさし出でて世を照らす、みづからは、山の下(しも)の蔭に隠れて、その光にあたらず、山をば広き海に浮かべおきて、小さき舟に乗りて、西の方(かた)をさして漕ぎ行く、となむ見はべりし。夢覚めて、朝(あした)より、数ならぬ身に頼むところ出で来ながら、何事につけてか、さるいかめしきことをば待ち出でむ、と心の中(うち)に思ひ侍しを、その頃より孕(はら)まれ給ひにしこなた、俗の方(かた)の書(ふみ)を見侍しにも、また内教(ないけう)の心を尋ぬる中にも、夢を信ずべきこと多く侍しかば、賤(いや)しき懐(ふところ)の中(うち)にも、かたじけなく思ひいたづき奉りしかど、力及ぼぬ身に思う給へかねてなむ、かかる道におもむきはべりにし。

【現代語訳】
 (明石入道)「ここ数年は、同じこの現世に生き長らえてございましたが、そのままあの世に生まれ変わったような気になっておりまして、特別の用事でもないかぎりは、こちらのこともお知らせせず、また、そちらのこともお伺いしませんでした。仮名文を拝見するのは時間がかかって、念仏も怠るようで、無益だと思い、お手紙も差し上げませんが、人づてにお聞きすると、若君(明石の女御)は、東宮に入内なさって、男宮がお生まれになったとのこと、深くお喜び申しております。私自身はこうしたつまらない山伏の身とて、今さらこの世の栄達を願うのでもございませんが、過去の長い年月、未練がましく、六度の勤行にも、ただあなたの事を心にかけ、極楽往生の願いをさしおいて、お祈り申し上げてきました。

 あなたがお生まれになろうとした、その年の二月のその夜の夢に見たことは、私自身が、須弥山を右手に捧げている。山の左右から月の光、日の光が明るくさし出て天下を照らす。そして私自身は、山の下の蔭に隠れ、その光にはあたらない。山を広い海に浮かべておいて、小さな舟に乗り、西の方に向かって漕いで行く、といった夢を見たのでした。夢からさめたその翌朝から、取るに足らない私にも将来の望みが出てきたのですが、どんな事でそんなたいそうな事を期待できようかと、心の中で思っていましたところ、あなたが母君の胎内に宿られました。それ以来、俗世間の書物を読みましても、また経典の真意を調べましても、夢を信じるべきだということが多くございましたので、賤しい身ながらも、もったいないことと思い、大事にお育て申してきたのですが、力及ばぬわが身では思案に余り、このような田舎に下ってきたのです。

(二)
 またこの国のことに沈み侍りて、老の波にさらに立ち返らじと思ひとぢめて、この浦に年ごろ侍りし程も、わが君を頼むことに思ひ聞こえはべりしかばなむ、心ひとつに多くの願を立て侍し。その返申(かへりまうし)、たひらかに、思ひのごと時に逢ひ給ふ、若君、国の母となり給ひて、願ひ満ち給はむ世に、住吉の御社(みやしろ)をはじめ、はたし申し給へ。さらに何事をかは疑ひ侍らむ。この一つの思ひ、近き世にかなひ侍りぬれば、遥(はる)かに西の方(かた)、十万億の国隔てたる九品(くぼん)の上の望み疑ひなくなり侍りぬれば、今はただ、迎ふる蓮(はちす)を待ち侍る程、その夕(ゆふべ)まで、水草清き山の末にて勤めはべらむとてなむ罷(まか)り入りぬる。

 光出でむ暁近くなりにけり今ぞ見し世の夢がたりする

とて、月日かきたり。

【現代語訳】
 そして、この播磨の国の守を最後にして、年老いた身で今さら都には帰ることはすまいと諦め、この明石の浦に長年住んでおりました間も、あなたを頼みとして期待申しあげておりましたので、ひそかに多くの願を立てました。そのお礼参りも無事に果たされるように、望みどおりの運勢に巡り合われたのです。若君(明石の女御)が国の母となられ、願いが成就なさった時には、住吉の御社をはじめとしてお礼参りをなさいませ。今は何一つ疑うことがございましょう。このただ一つの願いが、近いうちに叶い、遥かに西の方、十万億土を隔てた極楽の上品上生に往生する望みも疑いないこととなりましたので、今はただ、弥陀の来迎を待っております間、臨終の夕まで、水も草も清らかな山の奥で勤行いたそうと、山に籠ることにいたしました。

 
光が射し出てくる暁が近づいてきました。今はじめて、昔見た夢の話をするのです

とあって、月日が書いてある。

(注)上品上生・・・極楽浄土の最上級の美しい所。

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■柏木、女三の宮を垣間見る

(一)
 御几帳(きちやう)ども、しどけなく引き遣りつつ、人げ近く世づきてぞ見ゆるに、唐猫(からねこ)のいと小さくをかしげなるを、少しし大きなる猫追ひ続きて、にはかに御簾のつまより走り出づるに、人々おびえ騒ぎて、そよそよと身じろきさまよふ気配ども、衣(きぬ)の音なひ、耳かしがましき心地す。猫は、まだよく人にも懐かぬにや、綱いと長くつきたりけるを、物に引きかけまつはれにけるを、逃げむと引(ひ)こじろふ程に、御簾のそば、いとあらはに引き開けられたるを、とみに引き直す人もなし。この柱のもとにありつる人々も、心あわたたしげにて、もの怖ぢしたる気配どもなり。

 几帳の際(きは)少し入りたる程に、袿姿(うちきすがた)にて立ち給へる人あり。階(はし)より西の二の間(ま)の東のそばなれば、紛れ所もなくあらはに見入れらる。紅梅にやあらむ、濃き薄き、すぎすぎにあまた重なりたるけぢめ花やかに、草子(さうし)の端(つま)のやうに見えて、桜の織物の細長(ほそなが)なるべし。御髪(みぐし)の裾(すそ)までけざやかに見ゆるは、糸を縒(よ)りかけたるやうになびきて、裾のふさやかに削(そ)がれたる、いと美しげにて、七八寸ばかりぞ余り給へる。御衣(おんぞ)の裾がちに、いと細くささやかにて、姿つき、髪のかかり給へる側目(そばめ)、言ひ知らずあてにらうたげなり。夕影なれば、さやかならず奥暗き心地するも、いと飽かず口惜し。

 鞠(まり)に身をなぐる若君達(わかきむだち)の、花の散るを惜しみもあへぬ気色どもを見るとて、人々、あらはをふともえ見つけぬなるべし。猫のいたく鳴けば、見返り給へる面(おも)もちもてなしなど、いとおいらかにて、若く美しの人やと、ふと見えたり。

【現代語訳】
 女三の宮の御殿では、御几帳が無造作に部屋の隅に寄せてあり、すぐそこにいる女房の気配が世なれた感じに見えるところに、唐猫のとても小さく可愛らしいのを、少し大きい猫が追いかけてきて、急に御簾の下から走り出すので、女房たちは驚き騒いで、あれあれと身じろぎして動き回る様子や衣ずれの音が、耳にざわつく。この猫は、まだよく人に懐いていないのか、首綱をとても長くつけられているのを、何かに引っ掛けてからみついてしまい、逃げようと引きずるうちに、御簾の片端が、中の丸見えになるほど引き開けられたのだが、それをすぐに引き直す人もいない。この柱のそばにいた人たちも、大慌てのようすで、手が出ないでいるようだ。

 几帳のそばから少し奥まった辺りに、袿姿で立っている方がある。階段から西にニつ目の間の東側の端なので、柏木の立つ位置からは、隠れようもなく筒抜けに見える。紅梅がさねであろうか、濃い色、薄い色を次々に何枚も重ね着した色の移り具合も華やかに、ちょうど草子の小口のように見え、上に着ておられるのは桜がさねの織物の細長であろうか。その裾まであざやかに掛かる御髪は、糸を縒りかけたようになびき、末がゆたかに切りそろえてあるのが、たいそう可愛らしく、七八寸ほど後に引いていらっしゃる。お召物の裾が長く余っていて、とてもきゃしゃで小柄で、その姿も、髪がふりかかっている横顔も、言いようもなく上品で可愛らしい。夕方の薄暗い光ゆえ、はっきりとは見えず、部屋の奥が暗い感じがするのも、実に物足りなく残念である。

 蹴鞠に熱中している若君達の、花の散るのを惜しんでなどいられぬ様子を見ようとして、女房たちは、こちらから丸見えになっていることに、すぐには気づかないようである。猫がたいそう鳴くので、振り返られた女三の宮の顔立ち、所作など、まことにおっとりしていて、若くて可愛らしい人だなと、直感された。

(二)
 大将、いとかたはらいたけれど、はひ寄らむもなかなかいと軽々しければ、ただ心を得させて、うちしはぶき給へるにぞ、やをらひき入り給ふ。さるは、わが心地にも、いと飽かぬ心地し給へど、猫の綱ゆるしつれば、心にもあらずうち嘆かる。ましてさばかり心をしめたる衛門の督は、胸ふとふたがりて、誰(たれ)ばかりにかはあらむ、ここらの中にしるき袿姿(うちきすがた)よりも、人に紛るべくもあらざりつる御気配など、心にかかりて覚ゆ。さらぬ顔にもてなしたれど、まさに目とどめじや、と大将はいとほしく思さる。わりなき心地の慰めに、猫を招き寄せてかき抱きたれば、いとかうばしくてらうたげにうち鳴くも、なつかしく思ひよそへらるるぞ、すきずきしきや。

【現代語訳】
 大将(夕霧)は、はた目にもひどくはらはらするが、御簾を直しにそっと近寄るのも身分にふさわしくないので、ただ気づかせようと咳払いをなさると、女三の宮はそっと奥にお入りになった。大将は、そうするのも、ご自身残念な気がなさったが、猫の綱をゆるめると御簾がもとのように閉じてしまい、思わずため息がもれる。まして、あれほど宮に心を奪われている衛門督(柏木)は、胸が急にいっぱいになり、あれは女三の宮以外のどなたでもない、大勢の女房たちの中で、はっきり目立つ袿姿からも、他人に間違えようもないなどと、心にかかって離れようがない。衛門督は何げない風を装ってはいたが、あのお姿を見過ごすはずはないと、大将(夕霧)は、女三の宮を気の毒にお思いになる。衛門督は、たまらない気持ちを慰めるため、猫を招き寄せて抱き上げると、移り香がまことに香ばしく、可愛らしく鳴くのも、宮かと思われるのは、何とも好色なことではある。

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若菜(わかな)下

■冷泉帝譲位

 はかなくて年月も重なりて、内裏(うち)の帝(みかど)御位につかせ給ひて十八年にならせ給ひぬ。「次の君とならせ給ふべき皇子(みこ)おはしまさず、物のはえなきに、世の中はかなく覚ゆるを、心安く、思ふ人々にも対面し、私ざまに心をやりて、のどかに過ぎまほしくなむ」と、年ごろ思し宣はせつるを、日頃いと重く悩ませ給ふことありて、にはかにおりゐさせ給ひぬ。世の人、飽かず盛りの御世を、かくのがれ給ふこと、と惜しみ嘆けど、東宮もおとなびさせ給ひにたれば、うち継ぎて、世の中の政(まつりごと)など、ことに変はるけぢめもなかりけり。

 太政大臣(おほきおとど)、致仕(ちじ)の表(へう)奉りて、籠(こも)りゐ給ひぬ。「世の中の常なきにより、かしこき帝の君も、位を去り給ひぬるに、年ふかき身の冠(かうぶり)を挂(か)けむ、何か惜しからむ」と思し宣ひて、左大将、右大臣になり給ひてぞ、世の中の政(まつりごと)仕うまつり給ひける。女御の君は、かかる御世をも待ちつけ給はで、亡(う)せ給ひにければ、限りある御位を得給へれど、物の背後(うしろ)の心地して、かひなかりけり。六条の女御の御腹の一の宮、坊にゐ給ひぬ。さるべき事とかねて思ひしかど、さしあたりてはなほめでたく、目おどろかるるわざなりけり。右大将の君、大納言になり給ひぬ。いよいよあらまほしき御仲らひなり。

 六条の院は、おりゐ給ひぬる冷泉院の、御嗣(つぎ)おはしまさぬを、飽かず御心の中(うち)に思す。同じ筋なれど、思ひ悩ましき御事なくて過ぐし給へるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿(すくせ)、口惜しくさうざうしく思せど、人に宣ひ合はせぬ事なればい、ぶせくなむ。

【現代語訳】
 何ということもなく年月も過ぎ、今の帝がご即位なさってから十八年におなりになった。帝は、「次の御代をお継ぎになる皇子がおられないので、張り合いがなく、この命もいつまで続くのか分からないので、気楽に、親しく思う人々にも逢い、私人として気ままにゆっくり暮らしたい」と、何年もそう思いになり仰せにもなっておられたのだが、この頃ひどくお患いになることがあって、急に御譲位になられた。世間の人は、まだまだお盛んな御世を、こうもお退きになるとは、と惜しみ嘆くが、東宮もすでにご成人あそばしていたので、すぐに御位をお継ぎになられて、世の政などは、これまでと別段変わりもないのだった。

 太政大臣は辞表を差し出して、引きこもってしまわれた。「この世は無常であるので、畏れ多い帝の君も退位あそばした。それなのに、年老いた自分が冠をかけて辞職して、何の惜しいことがあろう」とお思いになり仰るので、左大将(髭黒)が、右大臣におなりになって、政務をお執になるのだった。女御の君(新帝の母、承香殿女御)は、こうしたねでたい時お見届けにならずお亡くなりになったので、最高の御位の追贈をお受けになったが、日の当たらぬ物陰のようで、かいのないことであった。六条の女御(明石の女御)の御腹の一の宮が、東宮にお立ちになった。こうなるだろうと、前々から予想されていたことだが、いざ実現すると、やはりすばらしく、目も覚めるように喜ばしいことであった。右大将の君(夕霧)は、大納言になられた。右大臣(髭黒)とも、いよいよ申し分のない御間柄である。

 六条院(源氏)は、ご退位なさった冷泉院に御跡継がいらっしゃらないのを、残念な事と、心中ひそかにお思いになる。今の東宮も同じ血筋ではあるが、これまで冷泉院が思い悩んでいらした御事も、何でもないように表に出さずにお過ごしになっただけに、ご出生にかかわる罪は世間に知られずにすんだが、そのかわり、帝のお血筋を子孫にまで伝えることができなかった御宿運を、残念に、物足りなくお思いになるが、誰ともご相談できない事なので、お胸が晴れない思いでいらっしゃる。

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■女楽の夜

(一)
 月、心もとなきころなれば、灯籠(とうろ)こなたかなたにかけて、火よき程にともさせ給へり。宮の御方をのぞき給へれば、人よりけに小さくうつくしげにて、ただ御衣(ぞ)のみある心地す。にほひやかなる方は後れて、ただいとあてやかにをかしく、二月(きさらぎ)中の十日ばかりの青柳(あをやぎ)の、わづかにしだりはじめたらむ心地して、鶯(うぐひす)の羽風にも乱れぬべく、あえかに見え給ふ。桜の細長(ほそなが)に、御髪(みぐし)は左右(ひだりみぎ)よりこぼれかかりて、柳の糸の様したり。

 これこそは、限りなき人の御有様なめれと見ゆるに、女御の君は、同じやうなる御なまめき姿の、今すこしにほひ加はりて、もてなしけはひ心にくく、よしある様し給ひて、よく咲きこぼれたる藤の花の、夏にかかりて、かたはらに並ぶ花なき朝ぼらけの心地ぞし給へる。さるは、いとふくらかなる程になり給ひて、悩ましく覚え給ひければ、御琴も押しやりて、脇息(けふそく)におしかかり給へり。ささやかになよびかかり給へるに、御脇息は例の程なれば、およびたる心地して、ことさらに小さく作らばやと見ゆるぞ、いとあはれげにおはしける。

【現代語訳】
 月の出が遅い頃なので、燈籠をあちこちにかけて、程よい明るさに火を灯させなさった。宮(女三の宮)がいらっしゃる所をお覗きになると、他の人よりまことに小柄で可愛らしく、ただお召物がそこにあるような感じがする。こぼれるような美しさという点では劣るが、まことに気品のある美しさで、二月の二十日ごろの青柳が、少しばかり枝垂れはじめたような感じで、鶯の羽風にさえ葉が乱れるほどに、か弱くお見えになる。

 これこそが最高の身分の方のご様子なのだろうと見えるが、女御の君(明石の女御)は、同じように優美なお姿ながら、もう少し生彩があり、物腰や感じが奥ゆかしく、教養のある様子でいらっしゃり、見事に咲きこぼれている藤の花が、夏まで咲き続け、ほかに並ぶ花もない早朝の風景の感じがなさる。とはいえ、ご懐妊のためお腹がまことにふくらんでおられる頃で、ご気分がすぐれず、御琴も押しやって、脇息によりかかっていらっしゃる。小柄なお体でなよなよともたれかかっていらっしゃるが、御脇息はふつうの大きさであるので、背伸びしたような感じで、ことさらに小さく作らなければと見えるのが、お気の毒なご様子であった。

(二)
 紅梅の御衣(ぞ)に、御髪(みぐし)のかかりはらはらと清らにて、灯影(ほかげ)の御姿世になくうつくしげなるに、紫の上は、葡萄染(えびぞめ)にやあらむ、色濃き小袿(こうちぎ)、薄蘇芳(うすすはう)の細長に御髪のたまれるほど、こちたくゆるるかに、おほきさなどよき程に様体(やうだい)あらまほしく、あたりににほひ満ちたる心地して、花といはば桜にたとへても、なほ物よりすぐれたるけはひ、ことにものし給ふ。

 かかる御あたりに、明石は気(け)おさるべきを、いとさしもあらず。もてなしなど気色ばみ恥づかしく、心の底ゆかしきさまして、そこはかとなくあてになまめかしく見ゆ。柳の織物の細長、萌黄(もえぎ)にやあらむ、小袿(こうちぎ)着て、羅(うすもの)の裳(も)のはかなげなる引きかけて、ことさら卑下したれど、けはひ思ひなしも心にくく侮(あなづ)らはしからず。高麗(こま)の青地(あをぢ)の錦の端(はし)さしたる褥(しとね)に、まほにもゐで、琵琶をうち置きて、ただ気色ばかり弾きかけて、たをやかに使ひなしたる撥(ばち)のもてなし、音(ね)を聞くよりも、またあり難くなつかしくて、五月(さつき)まつ花橘(はなたちばな)、花も実も具して押し折れるかをり、覚ゆ。

【現代語訳】
 紅梅がさねのお召物に、御髪がはらはらとかかっているのも美しげで、灯影に照らし出されたお姿はまたとなく可愛らしげであるが、紫の上は、葡萄染めであろうか、色の濃い小袿、薄蘇芳の細長をお召しになり、その裾に御髪がたまっている様は、たっぷりと、ゆったり弧を描き、お体の大きさなどはよいぐらいで、姿つきは申し分なく、あたり一面につややかな美しさあふれている感じがして、花ならば桜にたとえるところだが、さらにもすぐれている様子は格別でいらっしゃる。

 こうした方々と並ぶと、明石の君(女御の実母)は気おされて当然と思われるのだが、決してそのようなことはない。身のこなしなども由緒ありげで、見ているほうが気後れするほどで、心ひかれる深みがあり、どことなく気品がただよい、優美に見える。柳の織物の細長に、萌黄であろうか、小袿を着て、それに薄物の裳の目立たないのをさりげなくつけて、ことさらにへりくだっているが、その様子や心構えも奥ゆかしく感じられ、軽く扱うようなものとは思われない。

 高麗の青地の錦で縁どりをした敷物に、まともに座るのではなく膝だけをのせ、琵琶をそっと前に置いて、ほんの触れる程度に弾きかけて、しなやかに使いこなす撥の扱い方は、音を聞くよりも、この上なく優しくて、五月を待つ花橘を、花も実もいっしょに折り取ったときの香りを思わせる。

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■源氏、紫の上と語らう

(一)
 かやうの筋(すぢ)も、今はまたおとなおとなしく、宮たちの御あつかひなど、取りもちてし給ふさまも、至らぬことなく、すべて何事につけても、もどかしくたどたどしきこと交らず、あり難き人の御ありさまなれば、「いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例(ためし)もあなるを」と、ゆゆしきまで思ひ聞こえ給ふ。さまざまなる人の有様を見集め給ふままに、取り集め足らひたる事は、まことにたぐひあらじとのみ思ひ聞こえ給へり。今年は三十七にぞなり給ふ。

 見奉り給ひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみ給へ。もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬ事もあらむを、なほ思しめぐらして、大きなる事どももし給はば、おのづからせさせてむ。故僧都のものし給はずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。大方にてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」など宣ひ出づ。

【現代語訳】
 紫の上は、こうした音楽の方面でも、今はまた、ご年配にふさわしく、孫の宮(明石の女御が生んだ皇子女)たちのお世話などを引き受けていらっしゃり、至らぬところがなく、すべて何事につけても、非難されるような事もおぼつかない点もなく、無類のお人柄であるので、院(源氏)は、「ここまで何から何まで備わっている人は、長生きできない例もあるというが」と、縁起でもない事まで心配なさる。さまざまな婦人の人柄を御覧になってこられただけあって、何から何まで備わっていることは、実際二人とおるまい、と思っていらっしゃる。紫の上は、今年は三十七歳におなりである。

 いっしょに過ごしてこられた年月のことなども、しみじみとお思い出しになるこの機会に、源氏は、「しかるべき御祈祷など、例年よりも特別になさって、今年はお慎みなさい。私は何かと忙しいばかりで、気遣いが至らないこともあるでしょうが、やはりあなたご自身があれこれお考えの上、大がかりな法要をいくつかなさるのであれば、私のほうで執り行いましょう。故僧都が亡くなってしまったのが、ひどく残念です。ふつうの仏事をお願いするにしても、大変立派にしてくださる方だったのに」などとお話になる。

(二)
 「みづからは、幼くより、人に異なる様にて、ことごとしく生(お)ひ出でて、今の世の覚え、ありさま、来し方にたぐひ少なくなむありける。されどまた世にすぐれて、悲しき目を見る方も、人にはまさりけりかし。まづは思ふ人にさまざま後れ、残りとまれる齢(よはひ)の末にも、飽かず悲しと思ふこと多く、あぢきなくさるまじきことにつけても、あやしく物思はしく、心に飽かず覚ゆること添ひたる身にて過ぎぬれば、それにかへてや、思ひし程よりは、今までもながらふるならむ、となむ思ひ知らるる。

 君の御身には、かの一節(ひとふし)の別れより、あなたこなた、物思ひとて心乱り給ふばかりの事あらじとなん思ふ。后(きさき)といひ、ましてそれより次々は、やむごとなき人といへど、みな必ず安からぬ物思ひ添ふわざなり。高き交ひにつけても心乱れ、人に争ふ思ひの絶えぬも安げなきを、親の窓の内ながら過ぐし給へるやうなる、心安きことはなし。その方、人にすぐれたりける宿世(すくせ)とは思し知るや。思ひのほかに、この宮のかく渡りものし給へるこそは、なま苦しかるべけれど、それにつけては、いとど加ふる心ざしのほどを、御みづからの上なれば、思し知らずやあらむ。物の心も深く知り給ふめれば、さりともとなむ思ふ」と聞こえ給へば、「宣ふやうに、ものはかなき身には過ぎにたるよその覚えはあらめど、心に堪へぬもの嘆かしさのみうち添ふや、さはみづからの祈りなりける」とて、残り多げなるけはひ、恥づかしげなり。

 「まめやかには、いと行く先少なき心地するを、今年もかく知らず顔にて過ぐすは、いとうしろめたくこそ。さきざきも聞こゆる事、いかで御ゆるしあらば」と聞こえ給ふ。「それはしも、あるまじきことになむ。さてかけ離れ給ひなむ世に残りては、何のかひかあらむ。ただかく何となくて過ぐる年月なれど、明け暮れの隔てなきうれしさのみこそ、ますことなく覚ゆれ。なほ思ふさま異なる心の程を見はて給へ」とのみ聞こえ給ふを、「例の、こと」と心やましくて、涙ぐみ給へる気色を、いとあはれと見奉り給ひて、よろづに聞こえ紛らはし給ふ。

【現代語訳】
 (源氏)「私は、幼いころから、普通の人と違うありようで、仰々しく育てられましたし、現在、世間的な栄華を得ていることも、日々の暮らしのありようも、過去にこうした例はまれなのです。しかしまた、並々ならぬ悲しい目にあうことにおいても、人並みはずれて多かったようです。第一に、私を大事に思ってくれる人に次々と先立たれ、生き残った晩年においても、意に合わず悲しくてたまらないと思うことが多くあり、情けなく不適切なことについても、妙に心配をし、不満がつきまとう有様で年月を過ごしてきたので、それと引き換えなのでしょうか、思っていたより今までも生き長らえたのだろうかと、自覚されるのです。

 あなたについては、あの時の別れのほかは、何かのことで、心配してお悩みなさるほどのことはなかろうと思っています。皇后といっても、ましてそれより下の身分の人たちは、高貴な人といっても、みな必ず心穏やかでない心配事がつきまとっているものです。宮中での交際につけても苦しむし、帝のご寵愛を争う思いが絶えないのも穏やかではないのですから、あなたのように親の庇護下で過ごしておられるような気楽さはありません。その点、あなたは誰にも勝っている運命だったと、お気づきでしょうか。ただ思いがけず、この宮(女三の宮)が六条院においでになったことは面白くないでしょうが、それについては、以前より私のあなたへの愛情がいっそう増していくことを、ご自分のことなので、あるいはお気づきないかもしれません。しかし、あなたは物の道理もよく分かっていらっしゃるから、いくら何でもお分かりだろうと思います」と申し上げなさると、紫の上は、「おっしゃるように、頼りどころもない私には過分のことと、よそ目には見えましょうが、心に堪えきれない物悲しさばかりがつきまとうのは、それが私自身のお祈りのようになって支えとなってきたことです」といって、まだおっしゃりたいことが残っているご様子に、こちらが気後れしてしまうほどだ。

 紫の上は、「本当のことを申しますと、もう行く先長くない気がしますので、この厄年を知らぬ顔で過ごすことが、ひどく後ろめたいことに思えます。前々もお願いしました出家の件を、どうかお許しくださいましたら」と申し上げなさる。源氏は、「それだけは、あってはならぬことです。そうしてあなたと引き離されて、あとに残った私に、何の生き甲斐があるでしょう。ただこのように何となく過ごしている年月ではありますが、朝に晩にご一緒している嬉しさだけを、何にもまして代え難く思えるのです。やはり私の気持ちの深さ、最後までお見届けください」とばかり申し上げなさるのだが、紫の上は、「いつもの通り、同じことを」と胸がいたんで、涙ぐんでいらっしゃる様子を、しみじみおかわいそうにとお思いになり、あれこれと言い紛らわしなさる。

(注)現代語訳は、現代文としての不自然さをなくすため、必ずしも直訳ではない箇所があります。

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「梅枝」のあらすじ

(源氏39歳)
(夕霧18歳)
(雲居雁20歳)


2月、六条院は、11歳になる明石の姫君が裳着(成人式)を迎える準備で忙しかった。その前日、兵部卿の宮がやって来たので、彼を判者として薫物の匂い比べをすることになった。朝顔の斎院、紫の上、花散里、明石の上、そのどれの調合も素晴らしく、判者は優劣をつけかねた。明石の姫君の腰結い役は秋好中宮に決まり、裳着の式は盛大に行われた。

同じ2月の下旬、東宮(後の今上)が元服され、明石の姫君の入内が準備された。多くの貴族がわが娘を入内させたいと考えるが、明石の姫君がが入内するとあっては源氏の威光で娘が霞んでしまうと躊躇する。源氏はそれを慮り、明石の姫君の入内を延期する。さっそく左大臣の三君(麗景殿女御)が入内した。

内大臣は、夕霧との一件で雲居雁が入内できないことを残念がった。夕霧は出世し人望も厚く、縁談も持ちかけられている。早くに夕霧を婿に迎えなかったことを後悔し、雲井の雁を夕霧に許そうとも思うが、こちらからいうのも癪だった。夕霧は今もなお雲居雁を慕い続け、時折手紙を出している。

「藤裏葉」のあらすじ

(源氏39歳)
(紫の上31歳)
(夕霧18歳)
(雲居雁20歳)
(明石の上30歳)
(明石の姫君11歳)
(東宮13歳)


3月20日、大宮の一周忌が極楽寺で営まれ、大勢が参詣に集まった。中で夕霧の容姿がひときわ素晴らしかった。内大臣は夕霧の袖を引き寄せ、初めて親しい言葉をかけた。4月上旬、内大臣邸で藤の宴が催された時、夕霧も招かれ、内大臣は雲居雁との仲を許した。その夜、夕霧は雲居雁のもとに泊まり、ここに6年にも及ぶ多年の恋が実った。

その月の下旬、明石の姫君が入内した。紫の上が付き添ったが、紫の上は後見に明石の上を推した。明石の上と姫君親子は、8年の時を経てようやく一緒に住めるようになった。入内3日目、紫の上は、宮中で初めて明石の上に会った。明石の上の話す様子を見て、源氏がこの女人に惹かれたのも当然だと紫の上は感じ、明石の上もまた、数多き女人の中で紫の上が最も愛されるのはもっともなことだと感じた。

源氏は来年40歳になるので、帝をはじめ世をあげて賀の準備に取りかかる。秋、源氏は太政天皇に准ぜられ、内大臣は太政大臣に、夕霧は中納言に昇進した。夕霧の堂々とした姿に、新太政大臣も彼を婿に迎えてよかったと満足している。夕霧は三条の宮に住んだ。10月下旬、冷泉帝が六条院へ行幸され、朱雀院も同道された。世に例のないことであった。宴では舞いも披露され、源氏と太政大臣が若かりし頃、ともに青海波(せいがいは)を舞ったことをなども懐かしく思い出す。

「若菜上」のあらすじ

(源氏39~41歳)
(紫の上31~33歳)
(女三の宮13~16歳)
(柏木23~26歳)
(夕霧18~20歳)
(玉鬘25~27歳)


朱雀院(源氏の異母兄)は、六条院への行幸のころから病気がちであった。出家しようと思うものの、娘の女三の宮の行く末が案じられた。宮の降嫁を望む公達は多かったが、それにふさわしい男性はなかなかいなかった。年末に女三の宮の裳着の式が盛大に行われ、その3日後、朱雀院は出家された。院は思案の末、女三の宮のことを源氏に託された。院直々の願いであったため、源氏はやむをえずお引き受けした。

翌年の正月、源氏40歳の賀が催され、2月には女三の宮が六条院へ渡った。渡りの儀式はこの上もなくめでたく取り行われた。源氏は女三の宮の心の幼さに失望するが、紫の上にとっては、自分より身分が上の女三の宮の降嫁は大きな衝撃だった。その後、紫の上は一人寝の夜が多くなった。冷静を装っていたものの、苦悩は大きかった。同じ月、朱雀院は西山へ移られた。

 翌年3月、明石女御は男の子(後の東宮)を産んだ。人づてに知らせを聞いた祖父の明石入道は、これで宿願を果たしたと、尼君たちに長文の手紙を書いた後、深山に隠遁した。明石の尼君や明石女御は、もう会うことのできない入道を思って悲しむ。

柏木も女三宮に求婚したのだが、源氏の妻となったので落胆していた。しかし、女三の宮はみかけだけの妻だという噂が流れてきた。同じ3月に、六条院で蹴鞠が催された。柏木は女三の宮の部屋のあたりにいて、たまたま猫が御簾の端から走り出た拍子に、美しい袿(うちぎ)姿の女三の宮を見てしまった。柏木はその夜、女三の宮の乳母の子にあたる小侍従を介して、女三の宮に切なる思いを手紙で伝えた。

「若菜下」のあらすじ

(源氏41~47歳)
(紫の上33~39歳)
(女三の宮16~22歳)
(柏木26~32歳)


柏木は女三の宮への想いを捨てきれず、夕霧はそんな柏木の物憂げな様子を訝った。柏木は女三の宮を手に入れられないのなら、蹴鞠の日の猫だけでも手に入れたいと、東宮を経由して猫を借り受け、その猫をせめてもの心の慰めものとして日を送っていた。周囲の女房たちは不思議に思う。

数年が過ぎ、冷泉帝が譲位し、今上が即位した。次の東宮には明石女御の息子が立ち、太政大臣は致仕し、髭黒が右大臣、夕霧が大納言兼左大臣、柏木が中納言に昇進した。10月、源氏は紫の上や明石女御などをつれて、住吉明神に参詣した。まもなく女三の宮は二品(にほん)に叙せられた。紫の上は、一人寝の寂しさを明石女御がもうけた姫君の世話をすることで紛らわせていた。

翌年の正月、源氏は、朱雀院が50歳になる賀宴に先立って、六条院で女楽(おんながく)を催した。紫の上は和琴、明石女御は筝(そう)の琴、明石の君は琵琶、女三の宮は琴(きん)の琴を使い、優雅に合奏した。しかし、その翌朝、紫の上が突然発病し重篤に陥った。源氏はつきっきりで看病し、何とか少しずつ回復していった。

柏木は、女三の宮の姉、女二の宮(落葉の宮)と結婚したが、蹴鞠の日に見た女三の宮が忘れられず、賀茂の斎院の御禊の前日、小侍従を介して女三の宮と会い、許されぬ契りを結んでしまった。罪の意識におののきながらも二人の密会は続き、やがて女三の宮は懐妊した。源氏は不審に思ったが、ある日、柏木の手紙を発見し、すべての秘密を知った。そして、かつての藤壺と自分との一件を回想し、宿命の恐ろしさを思い知った。

12月、朱雀院50歳の賀の試楽が催された日、柏木は源氏から冷たい視線を浴び、秘密がばれたことを知る。恐怖と心痛から、柏木はそのまま病床に臥してしまう。

女君の性格

葵の上
 源氏の最初の正妻で、4歳年上。典型的なお嬢様タイプで、性格は冷たく、感情があまり表に出ない。関係が早いうちに冷めていたせいか、源氏が他の女性のもとに通うようになっても不満一つ漏らさない。

藤壺
 源氏の父・桐壺帝の中宮。亡き桐壺の更衣に酷似するというので源氏に慕われ、不義の子を産む。罪の意識にさいなまれ、また源氏とわが子の立場を守るために出家する。慕われる相手からの押しには弱い面があるが、よくないことはきっぱりと乗り越える強さもある。

六条御息所
 源氏の愛人。情熱的で嫉妬深さを併せ持つ。人目を気にして表面は気持ちを抑えるが、生霊や死霊になって祟るほど執念深い。

紫の上
 10歳のころに源氏に見初められ、後に正妻格となった。無邪気で素直な性格で、源氏最愛の女性。源氏が須磨に退隠した時期を除き、常に源氏の傍らにあったが、子どもはできなかった。

花散里
 源氏の父・桐壺帝の女御だった女性。その縁から、宮中で関係を持つ間柄となった。妻になれないのを不安に思うが、たまに源氏がやって来ると、嬉しい気持ちがまさって恨めしくおもっていたことも忘れてしまう。世話好きな性分で、後に源氏の息子・夕霧の養育を託される。

明石の上
 源氏が明石に退隠した時の愛人。地方役人の娘という低い身分ながら、謙虚で奥ゆかしく気品もある。源氏の一人娘を産んだことにより、紫の上、花散里に次ぐ地位を得る。

夕顔
 源氏の親友・頭の中将の愛人だった女性で、二人の間には子供も生まれていた。あちこちの女性にうつつを抜かす頭中将に、不満を漏らすことなく、いじらしく尽くす。従順でおっとりした、かよわい雰囲気の女性。

朧月夜
 右大臣の娘で、母は弘徽殿女御(天皇の母)という高貴な身分だが、自分の気持ちに素直にふるまう女性。皇太子妃になる予定がありながら、源氏との関係を持つ。自由奔放ゆえに悩みの多い人生だった。

末摘花
 常陸宮の娘だが、父を亡くしてからは生活に困窮するようになる。容姿は醜悪で、不器用で古風で頑固なところがあったが、その裏面にある誠実な一途さに源氏は心を打たれる。

玉鬘
 源氏の親友・頭の中将の生き別れの娘(母は夕顔)。先に見つけた源氏が引き取って自分の養女にした。田舎育ちながら母よりも美しく聡明で、出処進退や人への対応の見事なことよと源氏を感心させた。

浮舟
「宇治十帖」に登場するヒロイン。母親に守られながら育てられ、母の言うことを絶体とし、自己決定ができず、ひたすら受け身の性格。東国からいきなり都へ連れてこられ、薫に一目ぼれされたと思ったら、宇治へ連れていかれる。

「御」の読み方について

古語の「御」の読みについては「おほん(おおん)・おん・お・み・ご・ぎょ」などに分かれます。和語には「お」、漢語には「ご」、神や皇室に関わる語には「み」と読むなど一応の区別はあるようですが、例外も数多くあります。なお、当ページの本文中の「御」のよみがなは原則省略していますので、悪しからずご了承願います。

例 >>>
御遊び(おほんあそび)
御歩き(おほんありき)
御有様(おほんありさま/みありさま)
御祈り(おほんいのり)
御答へ(おほんいらへ)
御後見(おほんうしろみ)
御おぼえ(おほんおぼえ)
御思ひ(おほんおもひ)
御方々(おほんかたがた)
御返り(おほんかえり)
御容貌(おほんかたち)
御気配(おほんけはひ)
御言(おほんこと)
御琴(おほんこと)
御姿(おほんすがた)
御住まひ(おほんすまひ)
御消息(おほんせうそこ)
御衣(おほんぞ/みぞ)
御契り(おほんちぎり)
御時(おほんとき)
御宿直(おほんとのゐ)
御供(おほんとも)
御名残(おほんなごり)
御悩み(おほんなやみ)
御匂ひ(おほんにほひ)
御鼻(おほんはな)
御文(おほんふみ)
御女(おほんむすめ)

御座所(おましどころ)
御前(おまへ/おほんまえ/ごぜん)
御許(おもと)

御願(ごぐわん)
御覧(ごらん)

御格子(みかうし)
御影(みかげ)
御几帳(みきちやう)
御髪(みぐし)
御国(みくに)
御位(みくらゐ)
御車(みくるま)
御気色(みけしき)
御子(みこ)
御心地(みここち)
御心(みこころ)
御障子(みさうじ)
御簾(みす)
御局(みつぼね)
御法(みのり)
御屏風(みびようぶ)
御代(みよ)