万葉の時代には、和歌は日本文化を代表する一大芸術であり、なかでも、柿本人麻呂はその世界にあって一世を風靡した天才歌人とされます。三十六歌仙の一人でもあり、山部赤人とともに「歌聖」と称えられる人麻呂は、現在も歌の神として各地の人丸神社に祀られています。ところが、人麻呂の生涯は全くもって謎だらけです。『日本書紀』などの史書にはその名が見えず、手がかりとなるのは『万葉集』に収められている歌とそれに付随する題詞、左注だけなんですね。
『万葉集』には人麻呂作の長歌19首、短歌75首が載っており、それ以外に『人麻呂歌集』として集められた歌が360首余あり、この中にも彼の自作の歌が含まれていると言われています。活動を開始したのは天武天皇の時代で、皇子、皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いことから、持統期から文武期にかけて活躍した宮廷歌人だったと確認されています。しかし、彼の生没年や経歴などはいっさい不詳なのです。
人麻呂の属する柿本氏は、『古事記』によると第5代・孝昭天皇の皇子の系統とされます。大和国添上郡を本拠地とし、『続日本紀』には人麻呂と同族と思われる柿本佐留という人物がいます。人麻呂と同一人物とする説もありますが、とくに根拠はないようです。また、人麻呂の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降、益田氏を称して石見国人となったともいわれますが、これも定かではありません。
出自とともに、人麻呂の死をめぐる問題も大きな謎となっています。『万葉集』巻第二には、人麻呂が石見国(島根県)の鴨山(かもやま)で臨終を迎えたときに、自らを悲しんで詠んだ歌が残されています。「鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあらむ」という歌で、一般には「私は鴨山の岩を枕に死を迎えようとしているが、妻は、それを知らずに今も私を待ち続けていることだろう」のように解釈されます。しかし、これとて必ずしも定まった解釈ではないのです。
また『万葉集』では、人麻呂の死を「死」という漢字で表記しています。この時代、人の死を記す場合は、三位以上なら「薨」、五位以上なら「卒」、それ未満は単に「死」と文字を使い分けていました。さらに五位以上であれば、その事跡が正史に記載されるはずが、その記載がありません。それらの理由から、人麻呂は六位以下の下級官吏だったと考えられています。一方、人麻呂は元は高官だったが、政争に敗れて刑死したとする説もあります。そもそも巻第二には、不慮の死を遂げた人や政治的に抹殺された人達の歌が中心に掲載されていて、その最後に人麻呂の歌が載せられているのです。
そうしたことから、人麻呂がふつうに亡くなったのではなく、官位を落とされて刑死させられた(水に沈められた)説があります。ただ、この時代の死刑執行の手続きとしてそのような方法がなされたとは考えにくく、あるいは自尽したのかもしれません。いずれにせよ、不本意な死であったとみて、件の歌も「鴨山の岩を抱いて沈む私の運命を知らずに、妻は私の帰りをずっと待ち続けていることだろう」との解釈に賛同したく思う次第です。
もっとも、この歌を人麻呂の実体験そのままと考えることには、従来多くの疑問が呈されており、自らを石見の横死者に見立てて、宮廷サロンの享受に具された虚構の辞世歌だったらしいとの見方もあります。
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