マーラーによる異化効果
以前、あまり詳しくはないけどクラシック音楽が好きという若い女性に、さも得意そうにマーラーの音楽の魅力を熱く語ったことがあります。そして、その後何日か経って再び彼女に会いましたら、あれからマーラーのCDを買ったというんです。「影響されました」って。
私はずいぶん驚いて「いったい何の曲を買ったの?」と尋ねましたら、《交響曲第4番》だというんです。ますます驚いて「それでどうだった?」と聞くと、彼女は言葉を濁し、なんとなく浮かない顔をしています。要するに気に入らなかったようです。それはそうだろう、しかも、よりによって4番か!と思ったものです。
この《交響曲第4番》は、マーラーの交響曲のなかで最も「親しみやすい」とか「わかりやすい」といわれる反面、どうしても好きになれないという人も少なくない曲です(とりわけ女性に多いとか)。たとえばチャイコフスキーのようには、まったく陶酔できない!
その理由は、指揮者の金聖響さんによれば、マーラーがこの曲で意図した「異化効果」によるといいます。「異化効果」とは「同化効果」の対義語で、たとえば映画で主人公の気持ちと一体になって喜んだり悲しんだりできる・・・というのが「同化効果」。反対に観衆や聴衆を「同化」させずに、逆らい、突き放し、悩ませるのが「異化効果」だそうです。
交響曲第4番は、綺麗なメロディだなと思ったらすぐに否定される。再び現れる美しいメロディもまた裏切られるのではとそわそわしながら聴いていると、今度は最後まで美しい・・・というふうに、何ともスッキリしない天邪鬼な音楽です。マーラーは、たとえば第2番『復活』で表現した「同化効果」とまったく逆のことを第4番でやっているわけです。
私のような、およそ素直とは程遠いひねくれたオジサンには、こうした捉えどころのない「異化効果」はむしろワクワクして楽しくてしようがないのですが、まだ若い身空の女性にはかなり無理があったようです。というか、それが普通で当たり前だろうと思います。彼女にはずいぶん悪いことをしてしまいました。
マーラーの《交響曲第8番》
個々のオーディオ・システムが”きれいな”音を出せているか。これを手っ取り早く判別する方法について、諸兄はどのようなご意見をお持ちでしょうか。簡単に判別できるのは、オーケストラの場合なら全奏者による強奏、すなわちトゥッティの部分の鳴り方だろうと思います。ここの音が、いかにスカーっと気持ちよく聴こえるか。うまくいっていないと、ひどい場合は楽器の強奏がノイズごと拡大され、まさに複合汚染状況となり、思わず耳をふさぎたくなります。
これは、大人数による「合唱曲」も同様です。声が団子になって濁ることなく、どれだけ透明に美しく聴こえるかどうか。ただし、合唱曲の多くは、いかに高性能なオーディオ機器であっても、ホールで聴く生音の再現はなかなか難しいとされます。確かに、百人、二百人の声がワーッと来るあの迫力には到底かなわないと感じます。そこだけは無理としても、きれいに澄んだ音が再生できるかどうかの判断に、合唱曲は格好の材料であると思います。
そこで、マーラーの《交響曲第8番》の登場です。大編成のオーケストラと8人の独唱者、そして複数の合唱団による大規模な演奏から、『千人の交響曲』とも呼ばれる異色の作品です。まさに強奏と大合唱がてんこ盛り。マーラー自身は、「これまでの私の作品の中で最大のものであり、内容も形式も独特なので、言葉で表現できません。大宇宙が響き始める様子を想像してください。それは、もはや人間の声ではなく、運行する惑星であり、太陽です」と語っています。
しかし、私は、長らく《第8番》を好きになれませんでした。なぜなら、私のシステムでは、この曲をなかなかきれいに再生できなかったからです。音が濁ってどうしようもなかった。この残念無念さをどう克服していくかが、私のこれまでのオーディオ生活における最大目標でした。一方では、録音状態の良いディスクに巡り合えなかったこともあります。あまりに規模の大きな演奏ですからね。録音する側にとっても技術的に難儀な曲だったのでしょう。
そうしてようやく出会えたのが、マリス・ヤンソンス指揮、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団による2013年の録音です。実に洗練された美しい演奏と高品位な録音が相俟って、当時、「初めてこの曲を美しいと思った」という評論家さんもいたほどです。私がそれまで感じていたのと似た思いの人がいたんだなーと感激した次第です。かてて加えて、我がシステムも、このような難曲?の美しさを何とか再現できるまでに成長できたことを嬉しく思います。手前味噌で恐縮ですが、自分の努力をちょっと褒めてあげたく思います。
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マーラーの言葉
- 私は三重の意味で無国籍者だった。オーストリアではボヘミア生まれとして、ドイツではオーストリア人として、世界ではユダヤ人として。どこでも歓迎されたことはなかった。
- 私の死後50年経ってから、私の交響曲を初演できればよいのに。今からライン河のほとりを散歩してくる。この河だけが、初演のあとも私を怪物呼ばわりすることもなく悠然とわが道を進んでゆくただ一人のケルンの男だ。
- 伝統とは炎を絶やさないことであり、灰を崇拝することではない。
- 交響曲を書くことは、私にとって、世界を組み立てることなのだ。
- やがて私の時代が来る。
- 交響曲は世界のようでなければならない。それはあらゆるものを包含しなくてはならない。
- 我々現代人は、我々の大小の思想を表現するためには大きな手段を必要とする。第一に我々は誤解されるのを避けるために、虹の彩色をさまざまのパレットの上に分ける必要がある。第二に我々の眼はますます多くの色を見、ますます繊細な変化を見ることを習得する。第三に我々の余りに巨大な音楽会場や歌劇場において多くの人々から理解してもらうために、大きな音を出さねばならない。
- バッハのポリフォニーの奇蹟はまったく他に例のないものです。単にその時代でというのではなく、あらゆる時代を通じてです。
- とても口では言い表せないほど、バッハから次々と、しかも回を増すごとに、より多く学んでいます(もちろん子供のころからバッハに教わっています)。というのも、自分自身のもって生まれた音楽の作り方がバッハ的なのです。もっとこの最高のお手本に没頭できる時間さえあったなら。
- 不思議だ。音楽を聴いていると――指揮をしているときでさえ――疑問に思っていることすべてに対して確たる答えが聞こえてくる。そうするとまったくすっきりした確かな気持ちになる。あるいはさらに、疑問など元々ないのだと、はっきり実感する。
- リヒャルト・ワーグナーの肺から吹き起こる、あのものすごい突風をまともに食らったら、ブラームスなどひとたまりもないだろう。
- 私はいつも自分を高い所に置いておきたい。いかなるものによっても煩わされたり、引きずりおろされたりしたくない。そういう高さに常にいるのは至難のことだ。
- 世界の人々の意見を、私たちを導いてくれるお星さまのように考えることではない。人生の中で、失敗にめげることもなく、拍手喝さいに浮かれることもなく、自分の道を歩み、絶え間なく努力することだよ。
- (妻のアルマへの言葉)君は若くて綺麗だから、ぼくが死んだら誰とでも一緒になれるね。誰がいいかな? 〇〇は退屈な男だし△△は才人だが変わりばえがしなさすぎる。やっぱりぼくが長生きしたほうがいいか。
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