荀子の生没年は正確には分かっていないものの、孔子のおよそ200年後の人です。趙の出身で、斉に遊学し、そこで頭角をあらわし、学者集団である「稷下(しょくか)の学」の学長を務めるほどになりました。しかし、讒言にあって失職、次に向かった楚では、宰相・春申君に採用されて地方長官となっています。
そうした経歴をもつ荀子は、一方では、孟子と並ぶ孔子の偉大な後継者の一人で、孟子が孔子の「仁」の教えを受け継ぎそれを完成したのに対し、荀子は「礼・義」の教えを受け継いで完成したとされます。当時の政治は、人の行い(君主の施政)が天からの禍福をもたらすという「天命思想(天人相関説)」によって支配され、祭祀儀礼がもっとも大切に扱われてました。「天」や「天命」は、自然であると同時に神のような概念でも捉えられていたのです。
孔子はそれらに取って代わるものとして「礼」を提唱したわけですが、荀子はさらに論を進めます。人為、たとえば悪政が行われたからといって、それが原因で珍しい自然現象や天変地異が起きるわけではないし、徒に恐れる必要はない。そういったものはあくまで自然界の法則であって、またいつの世にも起きるのであるから、君主が善政を行ってさえいれば、それらが起きても国が揺らぐことはない。むしろ恐ろしいのは、人間がもたらす害悪の方である、と。
さらに、君主が雨乞いをさせたり占いで物事を決めたりするのは、大衆を安心させるための飾りにすぎないのに、それらに神秘的な力があると思うことは「凶」であるとさえ言っています。今となってはどうってことない当たり前の論ですが、当時はそれが最新の”科学”でもあったわけです。それを荀子をきわめて現実的かつクールに否定し、君主に対し「礼」と「義」に基づく責任ある政治を行うよう求めたのです。「礼・義」は天から独立した人間の規範であるからです。
そのような現実主義者であった荀子は、孟子による「性善説」は間違っているとして、次のように批判しました。
古今、善といわれるのは、世間が正しく平和に治まっている状態のことであり、悪というのは偏り乱れている状態のことである。これが善と悪の分かれ目となる。今、本当に人の性として正しく平和に治まっているというのなら、なおその上に、聖王や礼儀が求められるのはなぜか。
実際には人の性は悪である。人は生まれつき利益を好むから奪い合いが生じ、生まれつき人を憎むから殺し合いが生じ、本性のままに行動していれば、秩序が崩壊してしまう。だから、昔の聖王はそうならないために、君主の権勢を確かにして人々に臨み、礼儀を明らかにして人を教化し、法や刑罰によって治め、善に合致させようとしたのである。従って、礼は政治の極致であり、国家を強固にする根本である、と。
このように荀子が唱えたのが、孟子に反対する「性悪説」です。ただし、ここで注意しなければならないのは、荀子の性悪説は、真の意味の性悪説、すなわち人間の根源的な悪を指摘するというより、努力の重ね次第で人間は善にも悪にもなると説いていることです。人間の努力と、それを形式化した礼と義を重視せよというのが荀子の主張の主旨であり、彼の思想の中心となっているのです。
ここから法家にも似た厳格な思想が生まれ、それが弟子の韓非子や李斯の思想へと発展していきます。しかしながら、荀子は、孔孟を敬う人々からは異端者とみなされ、性善説を正統とする中国思想界では、長い間『荀子』の書は読まれることはありませんでした。孔子のお墓に合祀されたのも、顔回、曾参、子思、孟子の4人で、荀子は加えられていません。荀子の研究が行われたのは、ずっと時代を経た清朝時代に入ってからのことでした。
荀子の言葉から
→目次へ
![]() |
がんばれ高校生!
がんばる高校生のための文系の資料・問題集。 |