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藤原道長の人生ストーリー

 藤原道長は、平安中期にあたる康保3年(966年)に、藤原北家の藤原兼家(かねいえ)の五男として生まれました。同母兄弟には長男・道隆(みちたか)、三男・道兼(みちかね)、異母兄弟には次男・道綱(みちつな)と四男・道義(みちよし)がおり、また同母姉に、のちに入内する超子(ちょうし)と詮子(せんし)がいました。父の兼家はその実兄の兼通(かねみち)とは不仲で、兄の策謀により長らく出世を阻まれていました。貞元2年(977年)に兼通が亡くなると、兼家はようやく不遇の時を脱して右大臣となり、次女の詮子を円融天皇の女御として入内させ、詮子は第一皇子(懐仁親王:のちの一条天皇)を産みました。

 永観2年(984年)、円融天皇は花山天皇に譲位しますが、わずか2年後に兼家は策略をもって花山天皇を出家させ、詮子が産んだ皇子が一条天皇として即位します。兼家は摂政に就任し、朝廷から「一座の宣旨(宮中で第一の上座に着くことを認める宣旨)」を下され摂関政治を確立、道長も父の出世のおかげで歴代最年少の公卿となり、政権の一翼を担うこととなりました。とはいえ、兄が3人もいるため、彼自身さほど栄華を極めるに至るとは考えていませんでした。また、この頃、道長は左大臣・源雅信(まさざね)の娘・倫子(りんし)と結婚してのちに一条天皇の中宮となる彰子(しょうし)を授かり、左大臣・源高明(たかあきら)の娘・明子(めいし)も妻としました。

 永祚2年(990年)に、摂政から関白になっていた兼家が病気のため出家すると(2か月後に死去)、長男の道隆が関白に就任し、娘の定子(ていし)を入内させましたが、道隆は長徳元年(995年)に疫病(糖尿病ともいわれる)で倒れます。道隆は死ぬ前に息子・伊周(これちか)を関白にするよう天皇に願い出るものの許可されず、兼家の三男・道兼が関白となりました。しかし、道兼も就任からわずか数日後に疫病で死去し、次に内覧(※)の宣旨が下ったのが、図らずも道長でした。伊周が有力候補だったのですが、これには道長に目をかけていた姉の詮子の働きかけが大きかったといわれます。

 同年、道長は右大臣に任じられ、藤氏長者(とうしちょうじゃ:藤原氏の氏長者)になり、左近衛大将(さこんえのだいしょう)をも兼ねることになりました。また、長徳2年(996年)1月に、敵対していた伊周とその弟・隆家(たかいえ)が、女性関係を理由に花山法皇に矢を射かけるという事件(長徳の変)を起こし、不敬の罪に問われて失脚。これによって道隆を祖とする中関白家は不可逆的なダメージを受け、道長は左大臣に昇進、名実ともに朝廷内の権限を掌握する第一人者となりました。また、この変のいざこざの中で、中宮の定子も落飾しています。

 道長にとって姉・詮子の子である一条天皇は甥にあたり、二人の関係は良好だったといわれます。長保元年(999年)には、道長は成長した長女の彰子(しょうし)を一条天皇の中宮として入内させ、一帝二后の制を開始、寛弘5年(1008年)に敦成親王(あつひらしんのう:のちの後一条天皇)が生まれました。さらに同8年(1011年)に一条天皇が崩御して三条天皇(※)が即位すると、道長は次女・妍子(けんし)を入内させます。

 しかし、道長と三条天皇には深刻な対立が生じ、長和5年(1016年)に、眼病を理由に強引に退位させると、道長は自身の孫である敦成親王を後一条天皇として即位させ、自らは摂政となりました。そして、ほどなく道長は摂政を辞任、長男の頼通(よりみち)に摂政の座を譲ります。すでに天皇の外祖父として十分な権力を有していたため、後継体制を盤石なものにしようとしたようです。その後も道長は権力を維持し、寛仁2年(1018年)には四女・威子(いし)を後一条天皇に入内させ、一つの家から3人の后を出す「一家立三后(いっかりつさんごう)」を実現しました。

 道長が、あの有名な「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」の歌を詠んだころには、糖尿病など多くの疾患に苦しんでおり、寛仁3年(1019年)に出家しました。晩年の道長は、極楽往生を願って壮大な法成寺(ほうじょうじ)の造営を開始、造営には諸国の受領が奉仕したほか、公卿や僧侶、民衆にも役負担が課されるなど、引退後もその権勢は衰えを見せませんでした。万寿4年(1027年)12月4日、死期を悟った62歳の道長は、阿弥陀如来像の指と自分の指を糸で結び、念仏を唱えながら亡くなりました。政治家としての道長には、特別に優れた政策は見られませんでしたが、国内は平穏な時期が続きました。なお、道長は「御堂関白」とも呼ばれますが、実際に関白になったことはありません。

 道長の死後、長男の頼通は後一条、後朱雀、後冷泉の3代の天皇に摂政・関白として仕え、治暦3年(1067年)に辞任するまで約半世紀にわたって政権を掌握しました。そして、末法思想において末法元年とされる永承7年(1052年)に、道長から伝わる宇治の別荘を寺院(平等院)に改め、晩年は出家して平等院に隠棲しました。その後、藤原氏を外戚としない後三条天皇の親政や白河上皇の院政などにより、摂関政治は形骸化していきます。
 

(※)内覧・・・太政官から天皇に奏上される文書に前もって目を通し、政務を代行すること。内覧を経て摂政・関白になるのが慣例だった。
(※)三条天皇・・・冷泉天皇の第二皇子。母は兼家の長女・超子。

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摂政と関白

摂政は、天皇が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが困難のとき、代わって政治を行う役職。元来、皇族が任ぜられたが、平安前期の天安2年(858年)、幼少の清和天皇即位と同時に藤原良房が任ぜられて人臣の摂政が始まった。

関白は、成人後の天皇を補佐して任務を行う役職。平安中期の元康4年(880年)に藤原基経が就任したのが始まり。制度上は摂政が天皇の代理人立場にあるのに対し、関白は補佐の地位にとどまるが、政治上の実験にほとんど差異がない。

康保4年(967年)に藤原実頼が冷泉天皇の関白となって以降、摂政・関白が常置されることになったが、摂政と関白が同時に置かれることはない。平安以降は摂関を藤原氏が独占したが、唯一の例外は、関白に就任した豊臣秀吉・秀次親子のみ。

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