| 訓読 |
165
うつそみの人にある我(わ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたかみやま)を弟背(いろせ)とわが見む
166
磯の上(うへ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見すべき君がありと言はなくに
| 意味 |
〈165〉
生きて現世に残っている私は、明日からはあの二上山ををいとしい弟と思って眺めようか。
〈166〉
水辺の岩のほとりに生えている馬酔木の花を手折ろうと思うけれども、それを見せたい弟がこの世にいるとは誰も言ってくれない。
| 鑑賞 |
この2首は、題詞に「大津皇子の屍(かばね)を葛城(かつらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はふ)りし時に、大伯皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて作りませる御歌」とあります。二上山(今はニジョウサンと呼ばれる)は、奈良県と大阪府の境界をなす葛城連峰にある山で、標高517mの雄岳(おだけ)と標高474mの雌岳(めだけ)の二つの峰からなります。この二峰を男女の二神に見立てて「二神山」とも表記されました。平地のどこからでも、それと指させる山であり、大津の墓は、今も二上山の雄岳の山頂近くに、大和に背を向けるようにして建っています。
なお、この移葬は一般には、死者を仮安置する殯宮(ひんきゅう)から墳墓に移すことですが、この場合、謀反人である大津のために殯宮が営まれたとは考えにくく、特別な事情で、葬地を他に移したのではないかとする見方があります。そもそも、大津の抹殺は草壁皇子の安泰をはかって行われたものでした。それにもかかわらず、その3年後に草壁は皇太子のまま薨じてしまいます。それを大津の亡魂の祟りだと考え、罪人として正式に葬られていなかった大津の屍を、あらためて二上山に移し、丁重に慰撫し鎮定しようとしたのだといわれます。
165の「うつそみ(うつせみ)」は、この世の人、現世の人の意で、「うつしおみ(現し臣)」が語源とされます。「現し(うつし)」は神の世界に対する人間世界の形容、「臣(おみ)」は神に従う存在のことで、この「うつしおみ」が「うつそみ」「うつせみ」に転じたものです。『雄略記』には、この語が出てくる次のような話が載っています。――
天皇が百官を伴い葛城山に登ると、向かいの山に自分たちと全く同じ装いで同じ行動をとる一行に出会った。天皇は立腹し誰何すると、相手は、葛城の一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)と名乗った。天皇は恐れ畏まり、神に対し『恐(かしこ)し、我が大神。うつしおみにあれば、覚らず』と述べた――。天皇が神に不覚を詫びたものであり、「うつしおみ」は、幽界の神に対して自らを現世の臣下である人間と卑下した言葉となっています。大伯皇女の歌の「うつそみの人にある我れや」の言葉にも、幽界へ去った弟への深い喪失感とともに、現世に留まる自身の無力さを嘆く気持ちが込められています。
166の「磯」は、ここでは石、岩のこと。古くは石上(いそのかみ)など、石を「いそ」と呼んでいた例があります。「上」は、あたり、ほとり。花が白く美しく咲く「馬酔木(アセビとも)」は、その小さい壺の形が鈴なりになっていることから、生命力に満ちた呪的な花といわれ、万葉人は、馬酔木を深く愛したようです。弟を思う大迫皇女の心を語るかのような花であり、二上山の山頂には、今も馬酔木が群生しているといいます。「馬酔木」の漢字名は、葉にグラヤノトキシンなどの有毒成分が含まれており、馬が葉を食べれば毒に当たって苦しみ、酔うが如くにふらつくようになる木というところからついたとされます。ただ、この歌の左注には、移葬の歌らしくないので、伊勢神宮からの帰途に詠んだ歌か、と記されています。
飛鳥に戻ってきた大伯皇女には、当時の慣習に従って皇子宮が与えられました。工房跡の遺跡からは、皇女の宮を造るための資材を発注したとみられる木簡が見つかっています。皇女は未婚のまま、大宝元年(701年)12月に41歳で亡くなるまで、この皇子宮で孤独な余生を過ごしたとされます。
⇒ 大伯皇女が弟の大津皇子を思う歌(巻第2-105・106)
⇒ 大津皇子の死を知らされた大伯皇女が作った歌(巻第2-163・164)

「大津皇子の変」のあらまし
天武天皇崩御の翌月の686年10月2日、川島皇子の密告により、大津皇子(天武天皇の第三皇子で草壁皇子の1歳年少)の謀反が発覚して捕縛され、関係者30余人も捕えられました。密告した川島皇子は天智天皇の第二皇子で、吉野の盟約にも参加していた人です。大津は、後嗣とされた草壁皇子の異母弟であり、川島皇子の6歳年少ではありましたが、天武12年2月1日条には「大津皇子が初めて朝政をお執りになる」とあります。鸕野皇后(のちの持統天皇)の同母姉である大田皇女を母とする皇子で、草壁皇子に次ぐ皇位継承候補者であり、大柄で容貌も男らしく人望も厚かった人だったといいます。
事件は皇位継承にまつわる悲劇であったわけですが、具体的にどのような謀反の計画があったのか、どこまで準備がなされていたかなどは定かではありません。捕縛された翌10月3日、大津皇子は自害させられます。まだ24歳という若さであり、あまりに苛酷な運命と言わざるを得ません。妃の山辺皇女(天智天皇の皇女)も大津の後を追い自害しました。
10月29日、事件に関与した者のうち大津皇子の家臣・礪杵道作(ときのみちつくり)は伊豆に、新羅の沙門行心は飛驒に流されましたが、他は全て詔により許されました。行心は新羅の優れた僧で、『懐風藻』には、行心が、皇子の骨相を見て「人臣の相ではない。ひさしく臣下の地位にとどまっていると身に禍(わざわい)が起こる」と占ったのに惑わされて、ついに謀反を企てたのだという話が載っています。大津皇子の謀反に与したとされたものの、死罪一等を許されて、飛驒の伽藍に移されたのです。また、11月16日、大津の同母姉で伊勢神宮の斎宮だった大伯皇女は。弟の罪に連座し、任を解かれ都に帰されました。
事件の進展のあまりの早さから、わが子、草壁の安泰を図ろうとする鸕野皇后の思惑がからんでいたともいわれます。しかし、持統3年(689年)4月13日、皇后が恃みとしていた草壁皇子が、28歳で薨去。異母弟の大津皇子が自害してから3年後のことで、これで天武天皇と皇后の意図した皇位継承の目論見が実現不可能となったのです。
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