| 訓読 |
392
ぬばたまのその夜の梅を手忘(たわす)れて折らず来(き)にけり思ひしものを
394
標(しめ)結(ゆ)ひて我(わ)が定めてし住吉(すみのえ)の浜の小松は後(のち)も我(わ)が松
| 意味 |
〈392〉
あの夜に見た梅を、うっかり忘れて手折らずに来てしまった。あの花がよいと、深く心に留めておいたのに。
〈394〉
標を張って我がものと定めた住吉の浜の小松は、後もずっと私の松なのだ。
| 鑑賞 |
392は、大伴百代(おおとものももよ:生没年未詳)の歌。「ぬばたまの」は「夜」の枕詞。ぬばたま(射干玉、烏玉)はアヤメ科の多年草ヒオウギの種子。花が終わると真っ黒い実がなるので、名前は、黒色をあらわす古語「ぬば」に由来し、そこから、夜、黒髪などにかかる枕詞になっています。「手忘れ」は他に見えない語ながら、「手(た)」は「たなびく」「たもとほる」などと同様の、動詞につく接頭語と見られています。つい忘れて、うっかり忘れて。「折る」は女性と契りを結ぶことの譬え。梅を女性に喩え、目をつけていた女性を手に入れる機会をうっかり逸してしまったことを悔やんでいます。といっても、宴席で詠まれた座興の歌のようで、女性は、侍女、遊行女婦の類と見られます。
作者の大伴百代は 、天平初期に大宰大監(だざいのだいげん:大宰府の3等官の上位)をつとめ、その後帰京し、兵部少輔、美作守(みまさかのかみ)を経て、天平15年に筑紫鎮西府副将軍、のち豊前守(ぶぜんのかみ)となった人です。大伴旅人・家持父子とも親交があり、大宰府在任中に大伴旅人邸で開かれた梅花宴に出席し、歌を詠んでいます(巻第5-823)。大伴氏一族での血縁関係は不明。『万葉集』には7首の歌を残しています。
ちなみに、大宰府の官職には、長官である帥(そち)の下に、権帥(ごんのそち)・大弐(だいに)・少弐(しょうに)・大監(だいけん)・少監(しょうけん)・大典(だいてん)・少典(しょうてん)以下があり、別に祭祀を担う主神(かんづかさ)がありました。
394は、余明軍(よのみょうぐん)の歌。余明軍は百済の王族系の人で、「余」が氏、「明軍」が名。帰化して大伴旅人の資人(つかいびと)となり、旅人が亡くなった時に詠んだ歌(巻第3-454~458)や、資人の地位を離れる時に、旅人の子・家持に与えた歌(巻第4-579~580)をを残しています。「資人」は、高位の人に朝廷から給される従者のことで、主人の警固や雑役に従事しました。明軍は『万葉集』に8首の短歌を残しており、資人、また男性とは思えないほど微細で嬋娟(せんけん)な作風であると評されます。
「標」は「占め」と同源で、自分の占有であることを示す印。縄などを張って、その内には他人の侵入を許さないものでした。そのことから、特に女性を独占し、他人が侵さないように監視する意に用いられました。「住吉」は、大阪市住吉区。「住吉」は平安時代になってスミヨシと訓むようになりましたが、奈良時代以前はスミノエと訓んでいます。「小松」の「小」は、小さい意味ではなく、親しんで添えた語。名高い住吉の松を女に喩えており、同地の遊行女婦を指しているとみられます。「標結ひて我が定めてし」は、その女と契りを結んだことの比喩。「後も我が松」といって、愛する女を、今だけではなく後々もずっと独り占めしたいという男の心情を詠っています。
この歌の2句目の原文は「我定義之」で、「義之」を「てし」と訓みますが、長らく訓が定まらず、これを解読したのは、江戸時代の国文学者・本居宣長です。宣長は、まずこれを中国東晋の「王羲之(おうぎし)」の「羲之(義之)」のことだと考えました。王羲之は政治家であるとともに書家として有名だった人です。宣長は、当時、書家を「手師(てし)」と呼んだことに思い至り、「義之」を「てし」と読み解いたのです。『万葉集』ができてから実に千年も後のことでした。

本居宣長
江戸時代中期・後期の国学者・文献学者・医師で、伊勢松坂の豪商・小津家の出身。名は栄貞で、通称ははじめ弥四郎、後に健蔵。本居は先祖の姓。京都で医・儒学を学び、松坂に帰り小児科医を開業。遊学中に契沖の著書を読んで国学に関心を深め、また賀茂真淵 の学風を慕って入門。以後文通による指導を受け、真淵の勧めで『古事記』の研究に着手、約35年を費やして『古事記伝』を完成させました。荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」と呼ばれます。
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