| 訓読 |
1617
秋萩(あきはぎ)に置きたる露(つゆ)の風吹きて落つる涙は留(とど)めかねつも
1618
玉に貫(ぬ)き消(け)たず賜(たば)らむ秋萩(あきはぎ)の末(うれ)わくらばに置ける白露(しらつゆ)
1619
玉桙(たまほこ)の道は遠けどはしきやし妹(いも)を相(あひ)見に出でてぞ我(あ)が来(こ)し
1620
あらたまの月立つまでに来ませねば夢(いめ)にし見つつ思ひそ我(あ)がせし
| 意味 |
〈1617〉
秋萩に降りた露が風が吹いて落ちるように、はらはらと落ちる私の涙は止めようがありません。
〈1618〉
玉として緒に貫いていただこう。秋萩の枝先にとりわけ置いている白露を。
〈1619〉
道のりは遠くても、いとおしいあなたに逢うために、私はやって来ました。
〈1620〉
月が改まるまでにいらっしゃらないので、私は夢にまで見続けて、物思いをしてしまいました。
| 鑑賞 |
1617は、山口女王(やまぐちのおおきみ)が大伴家持に贈った歌。巻第4-613~617にも同様の歌があり、本来はその歌群の3番目にあった歌とされます。上3句は「落つる」を導く序詞。「留めかねつも」の「も」は、詠嘆。自身の悲しみを象徴的に露に託しており、露を嘆きの息にたとえたり、涙で袖が濡れるという表現は『万葉集』に多く出てきますが、露の玉を涙に見立てた歌は他にないようです。平安朝の和歌では普通に見られる見立てであることから、最も古い例とされ、それだけに新しい感覚による作ということができます。
この歌は家持の疎遠を嘆いているものですが、他の歌の内容からも、二人の恋は女王の一方的な悲恋に終わったらしくあります。しかしながら、山口女王は、伝未詳ながらも、臣下との結婚には制限を付けられていた皇族だったとみられ(臣下との結婚が認められていたのは5世からの皇族、山口女王は3世以内)、家持にとって恋愛の対象になりうる身分の女性ではなかったはずです。そこで、家持から一定期間の間、歌を習った関係にあったのではないかとの見方があります。
1618は、題詞に「湯原王(ゆはらのおほきみ)の娘子(をとめ)に贈れる歌」とあります。湯原王は天智天皇の孫、志貴皇子の子で、兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいます。天平前期、万葉後期の代表的な歌人の一人で、父の透明感のある作風をそのまま継承し、またいっそう優美で繊細であると評価されています。『万葉集』には19首の短歌が載っています。歌を贈った相手は、巻第4-631~641にある贈答歌の娘子と同一人かとも言われます。「玉に貫き」は、玉として緒に貫いて、で、下の「白露」を言ったもの。「消たず」は、他動詞「消つ」の未然形。「末」は、木の枝先または葉の先端。「わくらばに」は、原文に「和々良葉尓」とあるのを「和久良葉尓」の誤記とみて、とりわけの意とするほか、「わわらばに」と訓んで、たわむほど、乱れた葉、まばらな葉などと解する説があります。
窪田空穂は、「(わわらばを)かりに疎らな葉とすると、その時の露のうち、最も大きく最も美しいものだったので玉を連想して、戯れの形で娘子にいったのであろう。形は戯れであるが、心ほ朝露の美しさを愛でた、本気なものである。いうような意味だとするとこの四、五句は、鋭敏な王の感情と、修辞の巧みさを示しているものである」と述べています。
1619は大伴家持、1620は大伴坂上郎女の歌。大伴氏は竹田の庄(橿原市)と跡見(とみ)の庄(桜井市外)を経営していました。ふだんは都の邸宅に住んでいるので、管理人を置いて日常の管理をさせ、春の作付けと秋の収穫には出向いて立ち会う必要がありました。ここの歌は、天平11年(739年)8月、竹田の庄(橿原市)に秋の収穫のため下向していた叔母・大伴坂上郎女のもとを、家持が訪ねたときに交わした歌です。このとき家持は22歳くらい。
1619の「玉桙の」は「道」の枕詞。玉桙は、里の入り口や辻に立てられた陽石とする説、玉桙のちぶりの神、すなわち旅の安全を守る石神とする説があります。「はしきやし」は、ああ愛しい、ああ慕わしい。「妹」はふつう男性から恋人に対してかける言葉ですから、叔母に対して用いるのは一般的ではありません。少しふざけて、庄への訪問を、逢引にやって来たように歌ったものでしょうか。また、さりげなく道のりの遠さを言うことで慕情の深さを示しています。それに答えたのが1620で、男を待ち侘びた女として歌を返していますが、これらはあくまで儀礼の範囲のやり取りであるとみられています。「あらたまの」は「年」に掛かる枕詞ですが、ここでは「月」に転じています。「月立つまでに来ませねば」の「月立つ」は、新月が現れることで、つまり月が改まること。「来まさねば」の「まさ」は、尊敬の補助動詞「ます」の未然形。月が改まるまでにいらっしゃらないので、の意で、延び延びになっていた家持の訪問を皮肉った表現です。
郎女は、収穫された稲の検分、労働者への慰労、税関係の雑用などで多忙を極めていたのでしょう。家持は家持で、内舎人(うどねり:天皇に近侍する官)としての都での公務で忙しかったはずです。また家持は、この夏6月に、子までもうけた妾を失い(巻第3-462~474)、初秋のころまで嘆きの中にありました。この家持の訪問は坂上郎女からの招待によるもので、悲嘆に暮れる家持を慰めるためだったとされます。また郎女には別の意図もあり、この機会に家持と娘大嬢との仲を復活させようとしたとも言われます。家持と大嬢との関係は、家持の父の旅人の没後間もなく始まったのですが、大嬢のあまりの幼さゆえに、家持は他の女性たちと相聞歌を交わすようになり、大嬢を好ましく思いながらもその仲は途絶えていたのでした。この時郎女とともに庄にあったらしい大嬢と家持との間で、恋歌らしい恋歌が交わされるようになるのは、この秋9月からのことで、郎女のねらいは成功したのです。大嬢はこの時10代後半になっていました。

白露(しらつゆ)
『万葉集』では秋雑歌に集中して詠まれている語で、葉の上に置いた露が白く見えることからいう。「露」の歌語的表現で、「消ゆ」「起く」などを引き出す序詞に用いられることが多く、はかなさの象徴となっている。また「知ら」に掛けて用いることもある。もともと「しらつゆ」は、漢籍の「白露」によることも指摘されている。
「白露(はくろ)」は二十四気の1つでもあり、立秋から30日目をさす。太陽暦の9月7日ごろで、それからの15日間、すなわち8月節をもいう。夜中に大気が冷え、草花や木々に美しい朝露が宿りはじめる時期の意。
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