| 訓読 |
1928
狭野方(さのかた)は実にならずとも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに
1929
狭野方(さのかた)は実になりにしを今さらに春雨(はるさめ)降りて花咲かめやも
1930
梓弓(あづさゆみ)引津(ひきつ)の辺(へ)なる莫告藻(なのりそ)の花咲くまでに逢はぬ君かも
1931
川の上(うへ)のいつ藻(も)の花のいつもいつも来(き)ませ我(わ)が背子(せこ)時じけめやも
| 意味 |
〈1928〉
狭野方は実にならなくてもよいから、せめて花だけでも咲いて見せておくれ、実らぬ恋の慰めに。
〈1929〉
狭野方はとっくに実になってしまっているのに、春雨が降ってきたからといって、今さら花を咲かせはしません。
〈1930〉
引津のほとりのなのりその花が咲くまで、あなたは逢ってくれないのですね。
〈1931〉
川のほとりのいつ藻の花のように、いつもいつも来てください、あなた。私に都合が悪いなどということがあるものですか。
| 鑑賞 |
作者未詳の問答歌(問いかけの歌とそれに答える歌によって構成される唱和形式の歌)2組。1928は男の歌、1929はそれに返した女の歌。「狭野方」は未詳ながら、「方」は蔓性植物の蔓を指しているといわれ、落葉低木のアケビとする説が有力になっています。アケビは、林の木に巻き付いて生長し、春まだ早いころに、一つの株に姿や大きさが異なる雄花と雌花が咲きます。その名は、熟すと実が裂ける「開実(あけみ)」が転じたものとされます。「狭野方」を詠んだ歌は、『万葉集』にはこの2首のみです。1928の「実」は、恋の成立(結婚)を意味しており、「花」は交際を意味しています。「見えこそ」の「こそ」は、願望の終助詞。「なぐさ」は、慰め、気休め。二人の仲が実らずともよいから、せめて交際だけでもしてほしいと言っています。
1929の「実になりにし」は、すでに人妻であることを匂わせているもの。「今さらに春雨降りて」には、今さら他の男に言い寄られても、の意が込められています。「花咲かめやも」は、春雨が花を咲かせるという考えを踏まえての表現であり、「花咲く」は、相手の男と関係を結ぶことの譬え。「めやも」は反語で、承諾などできようか、できはしない、の意。当時は人妻に手を出すことは固く禁じられていましたから、有無を言わさない返しとなっていますが、うまく断る口実だったかもしれません。いずれの歌も、花を譬喩にしているとはいえ、かなり露骨で直截な歌となっています。
1930は男の歌、1931はそれに答えた女の歌。1930の「梓弓」は、弓を引く意で「引津」にかかる枕詞。「引津」は、福岡県糸島市の海岸。「莫告藻」は、海藻のホンダワラの古名。花の咲かない藻であるのに「花咲くまでに」と言っているのは、永久にないことを意味しており、女が避けて逢わないのを恨んでいます。「君」は、ここは男より女をさしての称。この歌は、巻第7-1279の『人麻呂歌集』にある「梓弓引津の辺なるなのりその花 摘むまでに逢はずあらめやもなのりその花」の旋頭歌を短歌に詠みかえたものとみられ、また答歌の1931は、巻第4-491の歌(吹黄刀自の作)と同じです。
1931の「いつ藻」の「いつ」は、接頭語。上2句は「いつもいつも」を導く同音反復式序詞。「時じけめやも」の「時じけ」は、その時期ではない意の形容詞「時じ」の未然形。「めやも」は反語で、時が悪いなどということがあろうか、いやない、の意。恋人の頻繁な来訪を願う率直な恋情を、水辺の植物に託して明るく表現した一首であり、古歌の詠みかえまたは古歌そのままを引用しているのは、かけ合いの謡い物となっていたのかもしれません。

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