孟子は、春秋時代に生きた孔子のおよそ100年の後、戦国時代の真っ只中で活躍した思想家です。若いころに、孔子の孫である子思(しし)の門人に学び、孔子の儒家の思想をさらに発展させ、人間の本性を善とする「性善説」に基づいた政治論を展開し、各国を遊説した人物です。なお、孟子の母親の教育熱心さを示す「孟母三遷」や「断機之戒」の言葉が有名ですが、これは事実かどうか定かでないようです。
孟子は、性善説の根拠を、人が生まれながらに持っている「四端(したん)」という概念で説明しています。四端とは「惻隠・羞悪・辞譲・是非」をいい、「惻隠(そくいん)」は人を憐れむ心、「羞悪(しゅうお)」は自分の不正を恥じる心、「辞譲(じじょう)」は他人に譲る心、「是非(ぜひ)」は善悪を判断する心を表します。生まれながらの四端は小さいものの、修養の重み重ねによってこれらを自分の徳として備えることができるとしています。
なお、この「四端」というのは「四つの端緒、兆し」という意味で、孟子は、惻隠は「仁」の端、羞悪は「義」の端、辞譲は「礼」の端、是非は「智」の端であると説いています。たとえば、幼児が井戸に落ちそうなっているのを見れば、どのような人であっても哀れみの心(惻隠の情)が起こってくる。これは利害損得を超えた自然の感情であるというのです。
孟子はまた、当時盛んに行われていた儒家と墨家の論争を克服しようと試み、そのなかで、「王道政治」による国家統治論を作り上げました。武力や策略によって支配や統治を行う「覇道政治」を強く非難し、性善説にたち、仁義に基づいて有徳の君主が国を治める政治の必要を説いたのです。孟子の言葉をまとめた書物の『孟子』では、「力を以て仁を仮る者は覇なり、徳を以て仁を行う者は王たり」と表現されており、人心から離れた君主は革命によって倒されるという「易姓革命説」をも打ち出しています。
さらに、かつて周の国で行われていた「井田制(せいでんせい)」という土地制度が理想的な社会であると、孟子は主張します。井田制というのは、1里四方の土地を井字形に9等分して、8区画を8家族に分け与え、残る1区画を公田として共同で耕作するというものです。孟子の書物に出てくる制度ですが、周で実際に行われていたかどうかは不明です。
孔子が不遇の一生を過ごしたのに対し、孟子は権力者に対して存分に自身の思想、主張をぶつけることができたようです。おもに活躍したのは、当時もっとも栄えていた斉の都・臨淄(りんし)で、孟子のほかにも全国から多くの学者が集まって議論していました。各国の君主はなかでも孟子を招くことをステータスとしていて、彼が遊説に出かけるときは、数十台の車を連ね、数百人の従者を引き連れていくほどの豪勢ぶりだったとか。
しかしながら、孟子の思想は、当時の時代背景にあっては、非現実的で理想にすぎないとして用いられることはありませんでした。やがて孟子は退居して弟子たちの教育と執筆に専念するようになりました。「仁」を完成させた優れた思想家として再評価されたのは後の時代になってからで、孔子の哲学の発展形である儒教は、別名「孔孟の教え」と呼ばれています。さらに儒教の一派となり性善説を採用した朱子学は、日本では江戸時代に幕府公認の学問とされ、大いに広がることとなりました。
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孟子の言葉から
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五十歩百歩
孟子は非常に気が強く、一国の王様に対しても全く物怖じせずに正論をぶつけたといいます。梁(りょう)の恵王との対話から生まれたのが、有名な「五十歩百歩」です。
恵王が、「私はこんなに善政を敷いているのに、なぜ隣国から我が国に民が移ってこない(人口が増えない)のだろうか」と不満を漏らしました。すると孟子は、得意の例え話で切り込みます。
「戦場で、ある兵士は『五十歩』逃げ、別の兵士は『百歩』逃げました。五十歩逃げた兵士が、百歩逃げた兵士に向かって『意気地なしめ!』と笑ったら、王様はどう思われますか?」
恵王が、「どちらも逃げたのだから同じだ」と答えると、孟子はニヤリと笑いました。「その通りです。王様の政治も、隣国の政治も、根本的な冷酷さは大して変わりません。これでは民が集まるわけがありません」
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