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清少納言が離婚した理由

 平安時代を代表する女流作家といえば、ご存知、清少納言紫式部ですね。実はこの二人、どちらも一度は結婚しているんです。しかし、紫式部の夫は病死し、清少納言は離婚しています。そのため二人とも宮中で働くようになったわけです。

 紫式部が夫を亡くして未亡人になったのは仕方ないとしても、清少納言はなぜ離婚したのでしょうか。彼女の夫は陸奥守だった橘則光という人ですが、その夫が浮気したわけでもなく、また、清少納言が自立したいといって家を飛び出したわけでもありません。真相は、どうやら清少納言との結婚生活に耐え切れなくなった夫のほうが、離縁を申し出たようなのです。

 では、彼女のどこに問題があったのか。それは、改めて『枕草子』を読むと、何となく察せられませんでしょうか。そこには才気あふれ、機知に富む彼女の姿が描かれています。たしかに、彼女の才能はすばらしかったのでしょうが、他人が書くならともかく、自分自身をあそこまで持ち上げる性格には、橘則光ならずとも我慢できなかったのではありますまいか。
 
 そうした『枕草子』の内容について、その文学的価値を落としてはならないという意識が働くためか、学習参考書などでしばしば「無邪気で明るい」などと評しているのを見かけます。しかし、いたいけな少女の文章ならともかく、ちょっと違うのではないかと思ってしまいます。

 清少納言とライバル関係にあった紫式部も、日記の中で彼女をこき下ろしています。現代風に訳すと、「清少納言は、実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢学の才をひけらかしていますが、よく見れば、まだまだ勉強不足の点がたくさんあります。あれほどいつも他人から抜き出ることばかり考えている人は、いつかボロをだし、末路はいいことがないに決まっています。軽薄な人の終わりはどうしていいはずがありましょうか」。めちゃくちゃ辛らつです。

 もっとも、離婚した後も、元夫婦の二人はちょくちょく会っていたといいます。妻としては今ひとつだったかもしれませんが、恋人として付き合うには、清少納言は魅力的な女性だったのかもしれません。これも何となく察せられるような気がします。男の勘です。

清少納言が仕えた中宮・定子

 清少納言が、一条天皇の中宮(皇后の異称)定子に初めて出仕したのは正暦4年(994年)ころで、その時、定子18歳、清少納言は28歳でした。定子は、中関白と称せられた藤原道隆を父とし、漢詩人として名高い貴子を母として誕生しました。正暦元年に一条天皇の後宮に入内し、中宮となりました。

 清少納言が初めて出仕したころは、中関白家の全盛期で、定子の宮廷生活も華やかに賑わい立つ日々でした。定子は生来のすぐれた資質に加え、父の明るい性格や母の学才を受けついで、周囲の人間をひきつけずにはおかない人柄だったといわれます。『枕草子』は、定子の外面・内面に及ぶ魅力が伝えており、その並びない才色で、一条天皇の寵愛を一身に受けました。

 しかし、長徳元年(995年)に道隆が死去すると、その栄華は一転しました。政権を掌握した道長の圧迫を受けて、兄の伊周や弟の隆家が失脚させられたのです。伊周が大宰権師として京を下るに際し、定子はみずから髪を下ろして尼となりました。さらにその年に母も亡くなり、身辺は失意と悲しみに包まれました。それでも天皇のご寵愛は続き、内親王と親王を出産しました。長保2年に皇后となりましたが、内親王を出産した翌日、後産のため24歳の若さで死去しました。

 清少納言は、道長の世となった後も、献身的に定子に仕えましたが、定子が亡くなった後、ある期間の服喪を終えてから辞去しました。
  


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