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巻第6(索引)万葉集(掲載歌の索引)古典に親しむ

『万葉集』巻第6-931・932

訓読

931
鯨魚(いさな)とり 浜辺(はまへ)を清み 打ち靡(なび)き 生ふる玉藻(たまも)に 朝凪(あさなぎ)に 千重(ちへ)波寄せ 夕凪(ゆふなぎ)に 五百重(いほへ)波寄す 辺(へ)つ波の いやしくしくに 月に異(け)に 日に日に見とも 今のみに 飽き足らめやも 白波の い咲き廻(めぐ)れる 住吉(すみのえ)の浜
932
白波の千重(ちへ)に来寄(きよ)する住吉(すみのえ)の岸の埴生(はにふ)ににほひて行かな

意味

〈931〉
 浜辺が清らかなので、ゆらゆら揺れながら生えている海藻に、朝の凪ぎには千重の波が打ち寄せ、夕べの凪ぎには五百重(いおえ)の波が打ち寄せる。その浜辺に寄せる波のように、ますます繁く月を重ね日を重ね眺めても飽きないのに、まして今だけで見飽きることなどあろうか。花のように白波の花が咲きめぐる住吉の浜。
〈932〉
 白波が幾重にも押し寄せる住吉の浜の黄土に、衣を美しく染めて行きたい。

鑑賞

 車持千年(くるまもちのちとせ)が初めて住吉の浜に立ち、海の珍しさに強い感興を得て作った歌。題詞には書かれていませんが、笠金村が詠んだ928~930の歌と同じ時の神亀2年(725年)10月の聖武天皇の難波行幸に従駕したときのものとされます。金村が難波を総括的に褒めているのに対し、千年は住吉の浜を褒めています。

 
931の「鯨魚とり」は、鯨を獲る意で「浜辺」にかかる属性的枕詞。「清み」は「清し」のミ語法で、清らかなので。「玉藻」は、藻を称えての称。「千重波」「五百重波」は、絶えない波の表現。「辺つ波」の「辺」は、岸辺。「の」は、のように。「いやしくしくに」は、ますます頻繁に。「月に異に」は、月ごとに。「見とも」は、見ようとも。「今のみに」は、まして今だけで。「飽き足らめやも」の「や」は反語、「も」は詠嘆で、飽き足ろうか、飽き足りはしない。「い咲き」の「い」は、接頭語。「咲き」は、波が咲くのではなく、波が立つ、高まる、の意とする説があります。「住吉の岸」は、今の大阪市住吉区、住吉大社の西に入江をなしていた住吉の浦の岸辺。現在は埋め立てられており、当時の海浜はありません。なお、「住吉」は平安時代になってスミヨシと訓むようになりましたが、奈良時代以前はスミノエと訓んでいます。

 
932の「来寄する」は、寄り来るの意の、上代の言い方。「埴生」は、赤黄色の粘土。「にほひて」は、染まって。「行かな」の「な」は、自身の希望、意志。当時、住吉には白砂青松の浜辺が広がり、岸辺には埴生が露出して黄色く見え、白波との対照が素晴らしい景観をなしていたといいます。その埴生で衣を染める鉱物染めが有名だったようです。この歌は、同じ難波行幸時の清江娘子(すみのえをとめ)の作(巻第1-69)を意識したものかとされます。

 なお、確実に
車持千年の作とされているのは、別掲の913~916の歌とここの長反歌があるに過ぎませんが、これらの他に、笠金村の歌集にあるものの、車持千年の作とされる歌が、巻第6-950~953にあります。こちらは、男女2首ずつの作であり、左注に車持千年の作というと記されているので、千年女性説に立てば、金村と千年との歌であったとも考えられます。
 


万葉集ゆかりの地(大阪府)

  • あられ松原
    「霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘と見れど飽かぬかも」(巻第1-65)
    所在未詳。大阪市住之江区安立(あんりゅう)付近か。
  • 河内の大橋
    「大橋の頭に家あらばま悲しく独り行く児に宿貸さましを」(巻第9-1743)
    片足羽川(かたしはがわ)に架かっていた橋。「片足羽川」は、大和川が龍田から河内へ流れ出たあたりの名か。
  • 草香
    「草香江の入江にあさる蘆鶴のあなたづたづし友なしにして」(巻第4-575)
    東大阪市日下町あたり、生駒山西麓一帯の地。
  • 住吉
    「住吉の浅沢小野の杜若衣に摺りつけ着む日知らずも」(巻第7-1361)
    大阪市住吉区を中心とした一帯の地。万葉の時代には、「住吉」は「スミノエ」と訓まれ、「墨吉」「住之江」「墨江」「清江」などとも表記されました。地名の起源は、『摂津国風土記』に「住吉大神が住むべき国を探していた際、当地に至って『真住み吉し』として社地を定めたという故事による」とされています。中心部に、航海の守護神の住吉大社、そのすぐ西に「住吉の津」があり、遣隋使や遣唐使が出入りする玄関口になっていました。
  • 高師の浜
    「大伴の高石の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ」(巻第1-66)
    高石市高師浜から堺市浜寺公園にかけての海浜。
  • 取石(とろし)の池
    「妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし」(巻第10-2166)
    高石市の南西部、旧泉北郡取石村付近にあった池。
  • 吹飯(ふけひ)の浜
    「時つ風吹飯の浜に出で居つつ贖ふ命は妹がためこそ」(巻第12-3201)
    泉南郡岬町深日の海岸。当時は紀伊国へ抜けるための交通の要衝であり、航海の安全を祈る場所でもありました。
 

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律令政治の展開

 律令国家は、大化の改新から50余年にわたる経験をいかし、公地公民の制度を実現しようとしました。全国の耕地が区分けされ、6年ごとに戸籍が改められ、6歳以上の男女に口分田が与えられました。口分田は一生の間、耕作を認められましたが、売買は禁止され、死後は国家に返す決まりになっていました(班田収授法)。

 口分田を支給された公民は、租・調・庸という税を課されました。税の内容はかなり厳しいものでしたが、多数の農民に一様に田地を分け与え、豪族の任意とされていたまちまちの税額を全国的に一律に定めたことは、国民にとって公正の前進を意味していました。ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、人口の1割弱だった賤民は差別されていました。とくに賤民のうち奴婢(ぬひ)とよばれる人々は、所有者の財産として扱われたのです。

 政治については、中央の役人が国司として地方に派遣され、そのもとで地方の豪族が郡司として起用されました。中央と地方を結ぶ主要道路には駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意されていました。奈良時代の日本の人口は約600万人で、そのうち平城京の人口は約10万人、官僚が約1万人いて、うち貴族は200人ほどだったといいます。

 聖武天皇の治世(724~749年)になると、疫病や天災が頻繁に起こり、土地を離れ逃亡する農民も増えてきました。朝廷は、開墾を奨励し、それまで国の統治が及ばなかった未墾地も規制するために、743年、墾田永年私財法を出して、新しく開墾した土地の私有を認めました。この法律は人々の開墾への意欲をかきたて、水田の拡大につながりました。しかし、有力な貴族や寺院、地方豪族などが逃亡農民などを使って私有地を拡大したため、班田収授法はしだいに厳格には行われなくなりました。

古典に親しむ

万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。