韓衣(からころむ)裾(すそ)に取りつき泣く子らを置きてぞ来(き)のや母(おも)なしにして ――
この歌は『万葉集』に収められている防人の歌です。信濃国の歌で、「韓衣の裾に取りすがって泣く子どもたちを置き去りにして来てしまった。母親もいないままで」と、防人として家を離れる辛さを歌っています。『万葉集』には、この歌のほかにも、防人になった男たちの、妻子との別れ難い感情や家族を思いやる気持ちを歌った歌が数多く収められています(巻第20に84首)。
防人は、663年に百済(くだら)救済のために出兵した白村江(はくそんこう)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れたのを機に、北九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置されました。大宰府に防人司(さきもりのつかさ)が置かれ、おもに東国の出身者の中から選抜、定員は約1000名、勤務期間は3年とされていました。
防人の徴兵は、逃げたり仮病を使ったりさせないため、事前連絡もなく突然にやってきて連れていったといいますからずいぶん乱暴です。まず都に集め、難波の港から船で筑紫に向かいました。家から難波までの費用は自前でした。なお、『万葉集』に防人の歌が数多く収められているのは、当時、出港地の難波で防人の監督事務についていた大伴家持(おおとものやかもち)が、彼らに歌を献上させ採録したからだといわれます。
ところで、防人として徴兵されたのは、わずかな例外を除いて、ずっと東国の出身者でした。これは何故か? これにはいくつかの理由が挙げられており、そのいくつかをご紹介します。
白村江の戦い以降、日本に逃れてきた百済の宮廷人や兵士は、それぞれ朝廷で文化や軍事の担い手として活躍しました。しかし、身分の低い人や兵士らは、幾度かに分けて東国に移植されました。同族間の憎しみは、時により激しいものになるといいます。天智天皇は、東国で新たな生活を始めた百済人を、防人として再びかり出し、日本を襲ってくるかもしれない彼らの祖国の同胞に立ち向かわせたというのです。
また、東国の力が強く、その反乱を未然に防ぐため、あえて東国の男たちを西に運んだともいわれます。さらに、東国出身者は、逃亡しにくかったからだとする見方もあります。彼らは土地勘がないので逃亡を始めからあきらめる、また、たとえ逃亡しても、方言からすぐに発覚してしまうから、というのです。任務が終わって帰郷するにしても、来たときとは違い、付き添いもなく自力で帰らなければならないため、途中で野垂れ死にする者も少なくありませんでした。つまり、容易に帰ることができないように仕向けられていたのです。
筑紫に到着した防人たちは、軍防令の定めによって土地がもらえました。自給自足の農耕を行うためです。防人といっても実際に戦う機会があったわけではありませんから、土地がもらえて気候が温暖で文化も進んだ地に馴染み、さらに故郷への帰途が極めて困難となれば、そのまま土着する者も少なくなかったことは想像に難くありません。
→防人の歌(万葉集)
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