唐に留学生を送った国は、日本ばかりではありません。新羅・渤海・吐番(現在のチベット)など東アジア全域に及び、その人数は唐末期の836年当時ですら216人もいたといわれます。日本では遣唐使派遣のたびに十数人の留学生・学問僧が送られましたが、そのなかで歴史に名を残している人はそれほど多くありません。
学才とうたわれた阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)は、養老元年(717年)の第9次遣唐使に従い、まだ17歳の若さで唐に渡りました。同期の留学生には吉備真備(きびのまきび)や玄昉(げんぼう)がおり、2004年に中国で墓誌が発見された井真成(いのまなり)も同じ船で唐に渡った人です。当時の唐は玄宗(げんそう)皇帝の時代で、都の長安は国際都市として繁栄をきわめていました。
仲麻呂は自分の名を朝衡(ちょうこう)と中国風に改め、官吏登用試験の科挙に合格し、唐の官吏としての生活を始めました。玄宗の信任も厚く、官位もどんどん上がっていきました。主に文学分野の役職を務めたことから、李白(りはく)や王維(おうい)などの有名な詩人との交流もあったようです。
天平5年(733年)に、多治比広成(たじひのひろなり)が率いる第10次遣唐使が来唐し、仲麻呂は、長安で遣唐使らの諸事を補佐しましたが、唐での官途を追求するため、このときには帰国しませんでした。その彼も、やがて故国に帰りたいと強く願うようになりましたが、皇帝は彼の帰国をなかなか許してくれません。ようやく天平勝宝4年(752年)に到着した、藤原清河(ふじわらのきよかわ)が率いる第12次遣唐使の船で帰国することが許され、その乗船の折に詠んだとされる望郷の和歌が、有名な次の1首です。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
中国の教養を身につけた彼は、この歌を詠んで見送りの唐人たちを感動させたといいます。この歌がどうやって日本に伝わったかは不明で、しかも仲麻呂が詠んだのは漢詩だったはずです。そこで、誰かが仲麻呂の漢詩を翻訳したのではないかとの説があり、歌が古今調の作風であることから、その有力候補は、紀貫之(きのつらゆき)とされています。仲麻呂自身は万葉時代の人といってよいのですが、『万葉集』にこの歌は載っていません。
ところで、ようやく唐の港を出航し、益久島(現在の屋久島)に向かった4隻でしたが、仲麻呂や清河の乗った船が暴風に遭い、安南(あんなん:現在のベトナム)に漂着、彼らは再び唐朝に戻ることとなりました。この年、唐で安史の乱が起こったため、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが来ましたが、唐朝は、航路が危険であることを理由に清河らの帰国を認めず、仲麻呂は清河とともに唐に留まることになりました。
再び中国の官界に復帰した仲麻呂は、後にベトナム地方を治める都護(長官)として活躍しましたが、宝亀元年(770年)、長安で72歳の生涯を閉じました。その功績から、潞州大都督の官名を追贈されています。なお、妻子の記録は伝えられていませんが、配偶者は当時ならいて当然とされ、詩などから太学在学中に初婚、その後出世して高位家の娘と2回目の結婚をしたと推定されています。
清河もまた、河清と名を改めて唐朝に出仕し高官となり、宝亀9年(778年)ころに、同じく帰国を果たせないまま唐で亡くなりました。清河は藤原四兄弟の一人である藤原房前の子で、光明皇后の甥にあたる人です。『万葉集』には、唐に渡る直前に詠んだ歌が残されています。
【PR】
古典に親しむ
万葉集 / 竹取物語 / 伊勢物語 / 土佐日記 / 源氏物語 / 枕草子 / 更級日記 / 徒然草 / 平家物語 / 方丈記 / おくの細道 / 芭蕉の俳句集 / 一茶の俳句集 / 蕪村の俳句集 / 小倉百人一首 |
【PR】
【PR】
→目次へ