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藤原不比等の天才的知恵

 藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等は、大化の改新の功労者・藤原鎌足の次男とされています。しかし、皇族中心の政治の中枢にあって、その成功ぶり、出世ぶりは尋常ではありません。そこでウワサされたのが、不比等は実は天智天皇の御落胤であるというもの。しかも、『大鏡』には次のような記述があるのです。

 「天智天皇は鎌足をたいそう気に入り、自分が目をかけた娘をひとり下げ渡された。その娘は天皇の胤を宿しており、天皇は鎌足に『男なら鎌足の子とせよ。女ならわが子としよう』とお約束された。そして生まれたのが男だったため、鎌足の子とされた。(中略)天皇の皇子である方は右大臣にまでなられた。藤原不比等の大臣でいらっしゃる」

 今となっては真実は闇の中ですが、ところで、日本の歴史のなかで、はじめて「権力」と「権威」を区別したのは、その藤原不比等です。天皇家はずっと遡ると「権威」でしたが、天武天皇の場合は、権威であると同時に権力でした。また持統天皇は、皇位継承のためには手段を選ばないということまでしています。ここにきて、天皇家がはたして国民をあげて仰ぎ見るに値する存在であるかどうかが少し揺らいできたのです。

 この権威と権力の併存をきれいに切り分けたのが藤原不比等でした。もちろん不比等はやり手ですから、自分の娘をちゃんと聖武天皇の皇后にしています。しかし、それはあくまで権威としての聖武天皇と自身の関係を維持するための手段でした。光明子を皇后にすることによって、自分が権力を握ろうとしましたが、権威を兼ねようとまでは一切考えていません。

 この不比等がつくったデザインによって、天皇の権威のあり方がほぼ確立します。その権威に対して、権力は実際の政治を行うものの、あくまで絶対的上位になるのを避ける形をとります。藤原氏はその後もずっと政権を握りますが、必ず天皇から官位をもらうことで初めて地位が確立することになっていました。皆が納得するシステムがスムーズに動き出したわけです。このような例は同時代の外国にはなく、人間の性(さが)というか、人心をよくよく考えた天才的知恵だったといってよいのではないでしょうか。

「平城京」は何と読む?

 710年に藤原京から遷都された平城京は、唐の都・長安をまねて造ったというのが定説になっています。しかし、長安は羅城(らじょう)といって、都市全体が高い城壁で囲まれていました。同じように唐をまねた朝鮮やベトナムの国々は羅城となっていますが、日本はそうなってはいません。ただ「京城垣(けいじょうがき)」という境界を示す垣根は存在したようです。

 これは、決して城壁の建設費用をケチったわけではなく、中国・朝鮮・ベトナムなどの国々は陸続きであるため、いつ異民族に侵略されるか分からないという危機意識があったのに対し、島国である日本にはその心配がなかったからだといわれています。平城京は、軍事的色彩のない、極めて平和的、政治的な都として造られたわけです。

 ところで、この平城京は、奈良時代には「へいじょうきょう」ではなく「ならきょう」と読まれていた可能性があるそうです。平城と書いて「なら」と読ませている例が多数見られるからです。「平」の元々の語源は平地を意味する「なら」で、それだけで「なら」と読めるわけですが、地名は漢字2文字が望ましいとの当時の考えから「城」を加えたともいわれています。ほかにも「乃楽」「寧楽」なども「なら」と読ませており、これらは平安時代になって「奈良」に統一されたようです。
 


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