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がんばった紀氏

 紀氏(きうじ)はもともと紀州の紀ノ川沿いに勢力をもっていた豪族でした。早くから武門の家柄として大和朝廷と結びつき、中央貴族として活躍していました。藤原京と平城京には紀寺という氏寺も残しています。そして、奈良時代の末、紀氏を母とする光仁天皇が即位するころ、紀氏の勢力は最盛期を迎えました。

 ところが、9世紀半ば、藤原氏とのあいだに争いが起きます。文徳天皇の皇太子の座をめぐる争いです。文徳天皇が即位したとき、天皇には4人の皇子がいました。第一皇子の惟喬(これたか)親王の母は紀氏の出身であり、しかも天皇最愛の皇子だったことから、紀氏は惟喬親王が皇太子となるのを大いに期待しました。

 しかし、文徳天皇は、生まれて間もない第四皇子・惟仁(これひと)親王を皇太子に決めてしまったのです。惟仁親王の母は藤原良房(ふじわらのよしふさ)の娘だったことから、政権独占をねらう良房が文徳天皇に強い圧力をかけ、天皇もそれに従わざるを得なかったのです。良房といえば、後に人臣で初めて摂政になった人物です。

 惟仁親王が清和天皇として即位して後は、惟喬親王の伯父だった紀有常は22年間も昇進できませんでした。さらに866年に起きた応天門炎上事件では、藤原氏のライバルの貴族たちが犯人として捕えられ、紀氏の有力者も連座させられました。これによって紀氏は最後の力も失ってしまいます。

 中央政界での出世の望みを絶たれた紀氏は「文学」に生きる道を求めました。905年に出来上がった日本最初の勅撰集『古今和歌集』の選者には、紀貫之紀友則が名を連ねています。また撰集された歌の2割が紀氏一門によるものでした。さらに貫之は、日本最古の日記文学の一つ、『土佐日記』を残しています。転んでもただでは起きない、そんな紀氏の頑張りだったのではないでしょうか。

『君が代』の歴史

 かの大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンがかつて、「世界の国歌のなかで最も荘厳な曲」と評したわが国の『君が代』。世界でもっとも短い歌詞の国歌とされ、その原型は、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』に「わが君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とあり、また、平安中期に藤原公任の撰による『和漢朗詠集』には、今日の形で、いずれもよみ人知らずの歌として載っています。

 「君が代」の「君」は、あなた、主人、君主、身近な長者などを広く指す語であり、必ずしも天皇を指すものではありません。「さざれ石の巌となりて苔のむすまで」というのは、「小石が成長して大きな岩となり、それに苔がはえるまで」の意で、この和歌は、江戸時代までずっと、祝福を受ける人の長寿を祝うものとして、謡曲・神楽歌・地歌・長唄などに引用されていました。国歌としては、1870年に薩摩藩の洋風軍楽隊が「天皇に対し奉る礼式曲」として、琵琶歌『蓬莱山』から歌詞をとって、イギリス人の軍楽隊教師に作曲させたのが始まりでしたが、当時の人々が西洋的な旋律に馴染めなかったこともあり、76年には廃止されました。

 これとは別に、文部省が同じ歌詞に曲をつけて『小学唱歌集』に採録したものの、あまり歌われませんでした。そこであらためて宮内省の雅楽局(後に雅楽部)に作曲を依頼、その結果、伶人長・林広守(はやしひろもり)が作曲した『君が代』が選ばれました。1880年に宮中の天長節御宴の際に吹奏楽で発表され、その吹奏譜は88年に「大日本礼式」として各条約国に送られました。そして「君」の語は一義的に天皇を指して用いられるようになりました。

 戦後に、『君が代』は「荘重すぎて大衆が歌うには適さない」などの理由から、進歩的な論者たちから廃止論が出たことがあり、また「天皇崇拝」「戦争賛美」の歌だとして忌避し、今でも子どもたちには決して歌わせないという教師もいるようです。しかし、最近ではむしろ若者の間で支持する人が増えているといいます。
 

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