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日韓同祖論

 『日本書紀』や『古事記』には、古代の日本と朝鮮南部は文化的に同属だったことを示す記述が数多くあるそうです。中国の『三国志』魏志東夷伝も、北九州の日本人と南朝鮮人をともに「倭(わ)」としており、当時の中国人は両者が同じ文化に属する同一種族と見ていたようなのです。

 これについて、もともと同じ民族だったのが二つに分かれて住むようになったのか、違う民族が同化したのか、それに至る経緯は全く分かっていません。北九州にいた日本人が南朝鮮に渡ったのか、または、その逆も考えられます。あるいはそうではなく、単にめちゃくちゃ親しい関係だっただけかもしれません。

 当時の南朝鮮には、任那(みまな)という日本人の出先機関または入植地があったことが『日本書紀』などに記されていて、百済(くだら)と協力して朝鮮北部の新羅に対抗していました。4世紀末ごろから、日本も任那を通じて百済と同盟し、新羅と戦っています。この同盟関係は、663年の白村江の戦いで日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れるまで続きました。

 そして、白村江の戦いで敗れた日本軍は、多くの百済の難民を日本に引き連れて帰ってきています。これほどに日本と南朝鮮はたいへん緊密な関係にあったということです。そうした事情から、日本人と韓国人の祖先は共通であるという「日韓同祖論」が主張されています。(日鮮同祖論、日朝同祖論ともいいます)

 言語の面から見ても、両者は非常に近い関係にあったのではないかという主張もあります。古代の南朝鮮で、どのような言語が用いられていたかの資料は残っていないものの、百済から日本にやってきた人々の活躍を見ると、似た言語を話していたとしか考えられないというのです。

 たとえば、百済からやって来た帰化人のなかで、王仁(わに)という人物がいます。「王」という姓から中国から百済へ移住した人物とみられ、日本に『論語』や『千字文』を紹介したとされる人です。また一方では、日本の和歌の父のように崇拝されていたといいますから驚きます。『古今和歌集』仮名序の中で、編者の紀貫之は、王仁の

「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」

という歌を掲げ、歌の父母のように誰もが手本にすべきだと書いています。日本の歌人の作品ではなく、百済人である王仁の作品が和歌の手本されているのです。こんなこと、もともと同じか似た言語を話していたのでなければあり得ないというのです。確かに不可解です。この歌、私も大好きな歌ですが、百済人がつくった歌なんてちょっと信じられないです。

 なお「日韓同祖論」が形成されたのは、少なくとも江戸時代中期の国学にさかのぼるとされます。しかし、そこでは日本の方が支配的・優越的地位にあったことが強調され、また明治期には、日本が進めた日韓併合や同化政策を正当化する根拠にも使われたことには留意すべきです。

古代道路の謎

 あまり知られていないことですが、今から1300年以上も前、7世紀ごろの日本には、国内を張り巡らす巨大道路網が建設されていたというんですね。その距離は東北から九州までの約6300kmにも及び、しかも最大幅30mというまさに巨大道路。1966年に田中角栄の議員立法により実行された高速道路計画は6500kmでしから、ほぼそれと同じ規模の距離です。

 では、いったい誰がいつ何のためにそんな道路を作ったのか。実は文献史料には何も書かれていないため、この国家的規模の大事業がなされた理由はまだ正確に分かっていないそうです。文化庁文化財調査官だったという人が書いた『古代道路の謎』(祥伝社)という本がありまして、この謎に迫っているものです。

 著者は「この古代道路建設は天武天皇による列島改造であった」と述べています。つまり律令国家という新しい国づくりのための象徴的なインフラ事業だったのではないかというのです。天皇中心の中央集権国家の建設を目指した天武天皇が、国民に国家の偉大さを感じさせるために、どこまでも続くまっすぐで幅広の道路を建設した、と。

 しかし、残念ながら、そんな立派な道路も11世紀ころには消えてしまいます。国家が道路の維持管理の責任を地方に押しつけたことが主因だったようです。何だかどこかで聞いたような話です。たとえ立派な道路であっても、日常的には使わない道路を維持管理するのは地方の官吏にとっては苦痛以外の何物でもなかったのでしょうね。
 


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