1882年、明治政府は伊藤博文らを憲法調査のためにヨーロッパに派遣した。伊藤は議会に対して皇帝の力が強いドイツ(プロイセン)の憲法を手本として学び、帰国した。
1885年、政府は憲法による政治に備え、内閣総理大臣と国務大臣で構成される内閣の制度を定めた。伊藤博文を初代内閣総理大臣とし、おもな大臣は薩長出身者で固められた。憲法の作成には、伊藤のほか井上毅などもかかわり、枢密院で内容が検討された。
1889年、大日本帝国憲法が、欽定憲法(天皇が国民にあたえる憲法)の形で発布された。
大日本帝国憲法では、国家の主権は天皇にあること、天皇が軍を統率し、外国と条約を結ぶ権限をもつことが定められた。国民には法律の範囲内で言論・出版・集会・結社・信教の自由、裁判を受ける権利、財産権などが認められた。また、国務大臣や議会、裁判所は天皇を助けるものと位置づけられた。
ここに、アジアで初めて憲法と議会を備えた立憲国家が誕生した。

(伊藤博文)
大正時代になると、藩閥政治を否定し、国民の意思を反映した「政党による政治」を求める声が高まってきた。政治学者の吉野作造は、民本主義を唱え、この運動をリードした。このような風潮の中、全国的な米騒動が起こり、藩閥の内閣が倒れると、衆議院で多数をしめていた立憲政友会の原敬が総理大臣となり、1918年、日本初の本格的な政党内閣を組織した。
この時代、政治だけでなく、労働者の地位向上をめざしたストライキ闘争や、さまざまな分野で社会運動が活発に行われた。女性の地位向上を求める運動、差別からの解放と自由・平等を求める運動、自由な教育を求める運動などもあった。政党政治が行われ、社会運動が盛んになったこの時代を、大正デモクラシーの時代という。

(原 敬)
◆日本国憲法は1946年11月3日に公布され、翌年5月3日に施行された。前文および11章103カ条からなり、基本的人権の尊重・国民主権・平和主義を三大原理としている。
◆日本国憲法は大日本帝国憲法のような欽定憲法ではなく、民定憲法である。
◆基本的人権は「人類が多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、「侵すことのできない永久の権利」(第97条)であるとして国家権力からの不可侵性をうたっている。
◆基本的人権には、自由権・平等権・参政権・社会権・請求権などがある。
◆自由権には、精神の自由・身体(人身)の自由・経済活動の自由の3つがある。
◆個人の尊重(第13条)を最大の価値とし、「すべて国民は、個人として尊重される。生命・自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と定めている。
◆国民主権について、前文で「ここに主権が国民に存する」と宣言し、「国政は国民の厳粛な信託によるもの」としている。これにより天皇制は「象徴天皇制」となった。
◆国民の三大義務とされているのは、教育を受けさせる義務、勤労の義務、納税の義務である。
◆前文と第9条で平和主義を明記し、前文では「平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」としている。
◆第9条第1項で戦争放棄を、第2項で戦力の不保持と交戦権の否認を宣言している。
◆「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(第14条)。
◆最高法規性を確保するため、第99条で「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と定めている。
◆日本国憲法の改正は「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」(第96条)とされている。
◆国会によって発議された憲法改正案の国民による承認は、国民投票により、有効投票総数の過半数の賛成が必要とされている。
◆明文の規定はないが、時代の変化に伴い、憲法上の人権として主張されるようになった権利を「新しい人権」といい、環境権、知る権利、プライバシーの権利などがある。
