意味を間違えやすい言葉
ここでは、本来の意味を間違って使われやすい言葉、または意味によって使い分けの必要な言葉をご紹介します。
■「青田刈り」と「青田買い」
卒業前の学生に対し、企業が早い時期から採用内定を出すことは、正しくは「青田買い」といいます。「青田」は、稲がまだ実っていない田の意味で、「青田刈り」は、昔の軍事作戦の一つで、敵が兵糧不足になるように、敵地のまだ青い田を刈り取ってしまうことを指していました。したがって、いくら早い段階の採用内定とはいえ、「青田刈り」の言葉を使うと、まだ実る前の役に立たない学生を採用するという失礼な意味になってしまいます。
■「意思」と「意志」
「意思」は、自分の思いや考えのことで、「意志」はそのうちでも、何とかしたいという積極的な心の持ち方を意味します。ただ、法律用語としてはすべて「意思」を使っています。「いしひょうじ」は、自分の考えを相手に向かって明らかにすることですから、「意思表示」と書きます。「いしはくじゃく」は、何かをしたいという意志が弱いということですから、「意志薄弱」と書きます。
■穿(うが)った見方
「君は穿った見方をするね」などと言われたら、何やら、けなされていると感じる人が少なくないようです。「疑ってかかるような見方をする」あるいは「ひねくれた見方をする」というような意味に捉えているためで、言う側も、そんなつもりで使っているのではないかと感じることがしばしばあります。しかし、この言葉は「物事の本質を的確に捉えた見方をする」という意味で、正しくは誉め言葉なのです。「穿つ」には、掘る、穴を開ける、突き抜くといった意味があります。
■姥桜(うばざくら)
「しょせん私は姥桜・・・」なんてセリフをどこかで聞いたような気がしますが、この場合は「しょせん私は、盛りを過ぎた女・・・」というような謙遜の意味で使っているのでしょう。しかし、「姥桜」の本来の意味はそうではなく、娘盛りを過ぎても美しい女性のことで、誉め言葉なのです。
■「おざなり」と「なおざり」
どちらも「いい加減」ということでは同じですが、この二つの言葉には微妙な違いがあります。「おざなり」を漢字で書くと「お座成り」「御座成」となり、その場の間に合わせという意味です。一方、「なおざり」は「等閑に付す」の「等閑」を訓読みしたもので、いい加減なまま放っておくという意味です。
■「伯父」と「叔父」
どちらも父母の兄弟ですが、「伯父」は父母の兄および父母の義理の兄(父母の姉の夫)を指し、「叔父」は父母の弟および父母の義理の弟(父母の妹の夫)のことをいいます。また、「小父」も「おじ」と読みますが、これは血縁関係のない中年のオヤジのことです。
■おっとり刀
「おっとり刀で駆けつける」という言い方があります。「おっとり」という言葉から、「おっとり刀で」の意味を、「ゆっくりと」とか「のんびりした様子で」というふうに解釈している人がいますが、これは間違いです。そもそも「おっとり」は、「押し取り」が「押っ取り」に変化したもので、武士が危急の場合に刀を脇に差す余裕もなく、手に持ったままの状態を「おっとり刀」といいます。ですから、冒頭文の意味は、緊急の場合に取るものもとりあえず駆けつける様子を表します。
■おもむろに
漢字で書くと「徐に」で、「ゆっくりと」という意味。「急に」「すぐに」「突然に」といった意味はありません。
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■確信犯
「悪いことだと知りながら行った犯罪」のような使われ方をされますが、むしろ反対で、「政治的・思想的・宗教的などの信念に基づいてなされる犯罪」またはその行為を行う人のことです。本人に、実際は悪いことだという意識はなく、周囲(社会)が間違っていると思っているような場合に使います。
■割愛(かつあい)
「割愛」を「省略」と同じ意味で使っている人が多いようですが、「割愛」は、「愛」の字が示しているように、「必要だけど惜しんでカットする」という意味で、単に不要な部分をカットすることではありません。従って、たとえば「この部分は重要ではないので、割愛します」という使い方は正しくありません。
■「元日」と「元旦」
「元日」は、1月1日という意味で、「元旦」は元日の朝という意味です。したがって、「1月元日」とか「1月元旦」と書くのは、二重表現となり誤りです。また、「元旦の午後に会おう」という言い方もおかしいことになります。
■気が置けない
この言葉は、語感から、どうしても「気が許せない」とか「油断できない」いうような悪い意味に解釈されがちです。しかし、本当の意味は、「気にする必要がない」「気楽に接することができる」という、よい意味です。これは、この言葉をつくった人に文句を言うべきでしょうね。「ない」という打消し表現から、どうしても悪いイメージが浮かびますものね。このように誤解している人が多い言葉は、ふだんは使わないほうがいいかもしれません。誉め言葉のつもりでも、悪口を言われたと受け止められてはたまりませんからね。
■「聞く」と「聴く」
漠然ときく(きこえる)場合には「聞く」と書き、積極的に意識してきく場合には「聴く」と書きます。また、尋ねる、従うという意味では「聞く」と書きます。
■「規定」と「規程」
「規定」は法令関係、また条文一つ一つに対して使われ、「規程」は事務手続きに、また規則全体に対して使われます。ただし、「規定」に統一しているメディアもあるようです。
■奇特
特別にすぐれている、また、行いが感心なさまを指す言葉であり、風変わりで変わった行動をするという意味はありません。
■檄(げき)を飛ばす
「檄」というのは、昔の中国で人を呼び集める主旨を記した木札で、「檄を飛ばす」の意味は、自分の主張や考えを広く人々に知らせて同意を求めることです。激励の意味や元気のない者に刺激をあたえる意味で用いるのは間違いです。
■けりがつく
「けりがつく」というのは、困難な問題に悩まされてなんとか解決することです。自分で努力して決着させる場合は「けりをつける」と言います。ですから、よい結末で終わる場合には「けりがつく」とか「けりをつける」とは言いません。たとえば、「熱戦に次ぐ熱戦は、初優勝でけりがついた」などとは使いません。
■姑息(こそく)
よく「姑息な真似をするな」というような言い方がされますが、「姑息」の意味は、「一時の間に合わせ、その場逃れ」ということです。姑息に関する故事は『礼記』に登場し、「君子の人を愛するは徳を以てし、細人の人を愛するは姑息を以てす(教養ある人が人を愛するときは道徳により、無教養の人が人を愛するときはその場限りである)」というものです。「姑息」には、「卑怯」とか「ずるい」といった意味はないのです。
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■「探す」と「捜す」
「探す」は欲しいものを見つけようとすること、「捜す」は見えなくなったものを見つけようとすること。したがって、「息子の嫁を探す」は、息子の結婚相手を見つけようとする意味になりますが、「息子の嫁を捜す」と書くと、逃げ出したか行方不明になった息子の嫁を見つけようとする意味になってしまいます。
■五月晴れ
「五月の晴れた日」を意味するのではなく、旧暦の五月(現在の六月)の梅雨時に晴れるようすを指す言葉です。「五月雨(さみだれ)」も同様に、梅雨時の雨を意味します。
■さわり
「歌のさわりの部分」という表現をよくしますね。ところで、この「さわり」は、どの部分をさすのでしょう。おそらく多くの人が、歌の始まりの部分や歌のどこか一部分だと思っているはずです。ところがこれは間違い。「さわり」は、もともとは義太夫節のなかでいちばんの聞かせどころの意味でして、それが広く解釈されて、その話や歌のなかでもっとも感動的な(印象深い)ところということになっています。したがって、「歌のさわりの部分」は、歌いだしのところなどではなく、サビの部分を指します。
■潮時(しおどき)
もともとは、漁師が漁に出るときに潮の状況を判断して、最も適したときに船を出すことから出た言葉。だから、「物事を行うのに最も良いとき」という意味。現在では、しおどきというと、マイナスイメージで使われる場合が多いので、意味を間違っている人が多いようです。
■敷居が高い
「敷居」は和室の障子や襖(ふすま)をはめ込む部材のことで、「敷居が高い」は、高級あるいは上品すぎて、その家や店などに入りにくい意で使われがちですが、正しい意味は、不義理をしたり長い間音信不通だったりして、その家に行きにくいことです。
■失笑
他人の失敗や間違いを目にして、呆れて笑うというような意味で使われがちですが、正しくは、思わず笑ってしまう、吹き出してしまうという笑いの意です。
■しめやか
「しめやかに婚礼の儀が行われる」と言ったら大変。「しめやか」とは、気分が沈んで悲しげなさまをいいます。決しておめでたい式典の場合に使ってはいけません。
■ジンクス
「2年目のジンクス」といわれるように、「ジンクス」とは縁起が悪いことを表す言葉です。ですから、「ジンクスを守る」などと言うのは間違いです。
■すべからく
これを「すべて」「総じて」という意味に用い、「出された料理はすべからくたいらげた」というような言い方がされますが、ほんとうの意味は「ぜひとも」「当然・・・すべきである」で、「すべからく・・・べし」という形で用いられます。たとえば、「校則をやぶった生徒は、すべからく停学に処すべし」というふうにです。「すべて」と発音が似ていることから、誤用が増えてきたようです。
■「制作」と「製作」
どちらも、何かをつくるという意味ですが、どのように使い分けるのでしょうか。「制」という漢字は、余分な木の枝を刀で切り落として整えることをあらわしています。一方、「製」は「衣を制する」、すなわち衣服を仕立てる、ものをこしらえるという意味があります。したがって、「制作」は自分で考えて整え、定めるような場合に使い、「製作」は物をつくりだす、製造する場合に使います。たとえば、芸術化が絵画や彫刻などの作品を生み出すのは「制作」で、工業製品をつくるのは「製作」です。
■「精算」と「清算」
「精算」は、金額を細かく計算して結果を出すことで、「運賃を精算する」とか「出張費を精算する」というようなときに使います。「清算」は、今までの貸し借りをすべて整理して後始末をつけることで、「会社を清算する」「清算人」などと使います。また、過去の関係に始末をつけるという意味もあります。「二人の関係を清算する」「不純な関係を清算する」などです。
■世間ずれ
この場合の「ずれ」は、「ずれている」のではなく、「擦(す)れている」。靴ずれや股ずれの「ずれ」と同じ。だから、「世間ずれ」は、世間とずれている、非常識、世情に疎いなどの意味ではなく、実社会で苦労を重ね、世間の裏表を知り尽くして悪賢くなったことを表す言葉です。悪賢くなったわけですから誉め言葉には使いませんのでご注意。反対語は「世間知らず」。
■ぞっとしない
恐ろしくて身の毛がよだつ思いをするのが、「ぞっとする」。だからといって「ぞっとしない」が「恐ろしくない」の意味になるかというと、そうではありません。何とも意地悪な日本語でして、「ぞっとしない」は「感心しない」の意味。ここでの「ぞっと」は、感動や感激して鳥肌が立つような状態をいっており、その否定形です。例文:「浅草はあんまりぞっとしないが、親愛なる旧友のいう事だから、僕も素直に賛成してさ」(芥川龍之介『一夕話』から)
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■「耐える」と「堪える」
「耐える」は、長期間の使用に耐える(耐久)、高熱に耐える(耐熱)などのように、おもに物理的な作用に使います。「堪える」は、おもに精神的な作用であり、感情を抑える意味で、「批判に堪えてやり遂げる」「憂慮に堪えない」などと使います。
■「体制」と「態勢」
「体制」は長期的、「態勢」は短期的・部分的な内容を表します。たとえば、「生産体制」は長期的であり、「増産態勢」は短期的・部分的ですから、前者は「体制」と書き、後者は「態勢」と書きます。まったくの同音異義語であれば、実態に合わせて使い分ける必要があります。
■対談
「対談」は二人が話すことですから、三人以上が話す場合には使いません。三人の場合は、「鼎談(ていだん)」といいます。四人の場合は・・・知りません。
■「玉子」と「卵」
「鶏が玉子を産んだ」とはふつう書きません。「卵形」とは書きますが、「玉子形」とは書きません。「生たまご」は「生卵」と書きます。ところが「たまご焼」はどちらかというと「玉子焼」、「たまご丼」も「玉子丼」です。どうやら、料理したものが「玉子」で、卵の形をとどめている場合は「卵」のようです。「ゆでたまご」は料理しているにもかかわらず卵の形をとどめているためか、「ゆで卵」「ゆで玉子」の両方見かけます。
■天地無用(てんちむよう)
荷物の箱によく表示されている「天地無用」の言葉の意味は、「壊れやすいものが入っているから、逆様にしてはいけない」ということです。これを、「心配無用」とか「問答無用」のように「必要ない」という意味に解釈してひっくり返してしまうとエライことになります。この場合の「無用」は「小便無用」と同じように「禁止する」という意味を表します。また、「天地」とは上と下ということです。
■登竜門
「登竜門」という言葉は、出世のための難しい関門や、大事な試験を受けるときなどのたとえに使われますが、もともとは「出世の糸口をつかむ」という意味です。中国の黄河上流に「竜門」という急流があり、そこを登った鯉(こい)が竜に化けるという伝説から生まれた言葉です。登竜門という門があるわけではなく、「竜門を登る」という意味ですから、「登竜門をくぐる」とか「登竜門を通る」という言い方は間違いということになります。
■「特徴」と「特長」
「特徴」は目立った点という意味であり、「特長」は目立った長所という意味です。「犯人の特長」と書くと、とてもおかしくなります。
■鳥肌が立つ
この表現は、そもそも悪いことが起こったときに使います。たしかに素晴らしいことに感動して「鳥肌が立つ」という生理現象はあるようですが、たとえば体操競技の自由演技を見て、「鳥肌が立つ演技だった」などと言ってしまうと、選手たちは「ぞっとするような演技だったのか」といぶかってしまうかも。
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■なし崩し
「借金をなし崩しにする」というと、借金を無かったことにする、曖昧にするというような意味にとっている人が多いようです。「なし崩し」の本来の意味は、物事を少しずつ済ませていくこと、ですから、この場合は「借金を少しずつ返していく」という意味になります。
■破天荒(はてんこう)
豪快で無茶をする意味で使われることが多いようですが、本来は、誰も成し遂げたことのない偉業を達成するという意味で、「前人未踏」と同じです。唐の時代の荊州(現在の湖北省)は、官吏登用試験の合格者が1名も出なかったことから“天荒”(=未開の荒れ地)と呼ばれ、その土地出身の劉蛻という人物が試験に初めて合格したときに、“天荒を破った”といわれたのが始まりです。「豪快」の意味はないのです。
■「羽」と「羽根」
鳥や昆虫などの、体にくっついている状態のハネは「羽」と書き、体から離れてばらばらにされたハネは「羽根」と書きます。たとえば、「ハネを伸ばす」「ハネを広げる」の「ハネ」は「羽」で、「赤いハネ募金」「ハネ布団」の「ハネ」は「羽根」となります。また、扇風機のハネのように、羽形に加工されたものは「羽根」と書きます。
■半時(はんとき)
「半時」というのは、1時間の半分の30分という意味ではなく、「1時間」という意味。昔の時刻は、1日を子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12に分け、それぞれを「一時(いっとき)」としていました。ですから、一時は今の2時間にあたり、「半時」は今の1時間に相当します。そして、今の30分は「小半時(こはんとき)」と呼んでいました。ただし、夏も冬も、日の出と日の入りの時刻を基点に昼と夜に二分し、それから昼を6等分、夜を6等分していましたから、同じ昼の一時でも、夏と冬ではずいぶん長さが違っていました。時間の流れにも季節感があったということですね。
■悲喜こもごも
漢字で書くと「悲喜交々」です。春先に、入学試験の合格発表のニュースなどで、「いつもながらの悲喜交々の光景が見られました」という言い方がされますが、ほんとうはこの使い方は間違っています。この言葉の本来の意味は、一人の人間の心の中で悲しみと喜びが混じり合う、あるいは交互に去来する状態のことです。ですから、同じ場所で喜んでいる人と悲しんでいる人が混じり合っている状態をさす言葉ではないのです。
ふだんの私たちの生活の場面で、喜びと悲しみが同時にやってくるなんてあまりないと思いますが、交互にやってくることは多くあるでしょう。そういう意味での使い方としては、「そう悲観するな、人生は悲喜交々、がんばれ!」といったところでしょうか。
■火を見るより明らか
きわめて明らかで疑う余地のない意味ですが、悪い結果になることが予想される場合に使い、よい結果が予想される場合には使いません。「計画の失敗は火を見るより明らか」とは言いますが、「彼の成功は火を見るより明らか」とは言いません。
■憮然(ぶぜん)
「憮然として立ち去る」などといいますが、この「憮然」は、失望してぼんやりしているようすの意味で、腹を立てているようすを表すものではありません。
■やおら
「やおら」と聞くと、「いきなり」「突然に」というような意味に解釈する人が多いようです。しかしこれは、静かにあるいはおもむろに動作をするようすを表します。ですから、「彼は満場の拍手が鳴り止むのを待ち、やおら立ち上がってスピーチを始めた」というふうに用います。
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