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防人歌について
犬養孝著『万葉の旅・中』/平凡社から引用
『万葉集』中の防人の歌は、巻20に、天平勝宝7年(755年)2月防人交替のときの歌84首、昔年の防人歌9首、計93首があり、巻14に5首がある。なお、ほかに巻14に防人の歌かと思われるものがあり、巻13にも防人の妻の作かと伝える歌2首がある。
防人は崎守の意で、九州・壱岐・対馬の西辺を防備する兵士である。「防人」の語は『日本書紀』大化2年(646年)正月の改新の詔にはじめて出るが、そのはじめは古代国家形成期にさかのぼるものであろう。万葉のころの防人は、天智3年(664年)に、その前年に百済救援にむかった日本軍が大敗して長年の半島での実権を失った直後に、防備のためにおかれたもの以後の防人である。一時、九州の兵士をあてたこともあるが、ほとんどは東国人であった。天平宝字元年(757年)には東国の防人も廃止され、以後、平安初期にはこの制度も自然消滅のかたちとなった。したがって天平勝宝7年の防人交替は東国人最後の防人となる。防人の総数は3000人ぐらいと考えられ、任期は3年、毎年その3分の1ずつ交替し、交替期は2月1日となっていた。
東国で徴集された防人は、難波まで国庁の部領使(ことりづかい)によって引率され、難波からは専使がひきつれていって大宰府にひきわたされる。万葉にもっとも多い天平勝宝7年の防人歌は、部領使から、当時兵部少輔として防人の事に関係していた大伴家持の手をへて兵部省に上進されたもので、歌には地位身分・出身郡・作者名が録されていた。万葉によれば、防人のさし出した歌166首のうち、「拙劣の歌は取り載せず」とあって、82首はすてられている。これは歌人家持のするところであったろう。万葉におさめられるまでには、他人の手による多少の変改加工のあったことは考えられるが、まずは原歌とみとめられる。ことに歌の記載が一字一音式の表記によっていることは、東歌の場合と同様、当時の東国の方言訛音をそのままのこしていて貴重であるばかりでなく、東国人のむき出しの心情を助けている。
防人らは東国から難波までの旅費は自弁であったし、こんにちとちがって難波までの陸路、難波からの海路、長途の旅路だkでも並大抵ではない。生きの別れも覚悟しなければならない。まして留守の家族の生活の保証もないとあっては、旅立つ者、残る者の感慨は想像を越えるものがある。父母との別れをうたうものが26首もあるのは、かれらが比較的年の若いことのよるものであろう。防人らの出身地が、ゆたかな民謡的世界の東歌の地盤と一致するから、個人の歌とはいっても中央人の発想とはまったくちがった民謡的においにうらづけられ、それだけにぎりぎりの際のかれらの感慨は、朴直な土の香をともなって、いきいきした真情のままにうち出されている。
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万葉集・竹取物語・枕草子などの原文と現代語訳。 |